DX(デジタル・トランスフォーメーション)は世界中で進行中だ。日本でも、それが急務であることがようやく認識され、民間でもDX熱が高まっており、政府もデジタル庁を設置すべく準備を進めている。しかし、これまでアナログ社会にどっぷりと浸かっていた高齢の政治家や官僚、経営者には知識も経験も不足しており、そのレガシーにまみれた迷走ぶりが話題に上ることも多い。
一方、住民の平均年齢が若いうえ、出稼ぎの移民が中心でレガシーを引きずっていない深センでは、大胆なDXが実践できる。最近筆者が当地で体験したDXの事例をいくつか紹介する。
証明写真もデジタルデータ「物理材」はナシ
中国では、身分証や運転免許、社会保険カードの申請などで証明写真が必要だ。外国人は通常パスポートが身分証明書になるが、筆者は深センで仕事しているので、社会保険に加入し、社会保険カードを作る必要があった。社会保険カードを作るにあたっては、中国人、外国人を問わず、指定の証明写真が必要になる。筆者も市中の写真館で撮影したが、印画紙にプリントした写真はもらえない。戸惑って店員に聴いてみたところ、「プリントアウトは、手続きに不要だよ。もし必要なら1枚5元ですぐ作れるよ」という答えが帰ってきた。
社会保険カード用の証明写真を撮る資格のある写真館で撮影すると、店が写真データを市のデータベースに登録して、写真のシリアルナンバーを教えてくれる。写真を撮影した店の名前と、登録者(この場合は筆者)の名前がセットで登録される。写真を自分でアップロードすることはできない。
30元(500円ほど)の支払いに対する領収書兼登録が完了した証明として、白黒のプリントアウトに写真館の印を押したものがもらえる。一応その紙は保管してあるので、手続きのたびに持っていくようにしているが、データはクラウド上にあるので、おそらく紙がなくてもシリアルナンバーを照会してもらえば手続きはできるだろう。
アパート契約書もカギもスマホアプリ
筆者は中国深センで、アパートを借りて暮らしている。いま入居しているのは、深圳の不動産デベロッパー万科のアパートブランドBoYuの賃貸物件だ。この会社の物件に入居するにはスマートホンが必須で、BoYuのスマホアプリをインストールしないと契約ができない。
まず、物件を借りる際の賃貸契約書が、このアプリの中にのみ存在し紙の契約書はない。管理人に頼めば印刷してコピーを作ってくれるが、それはあくまでコピーであり、正本はクラウド上にのみ存在している。
引越をして、入居契約をする時も、スマホアプリ内の契約書を管理人が僕に説明するところから始まった。以前の借りていた物件では紙の契約書だったが、今回の契約ではすべてスマホアプリ内にある。
説明内容に納得し、契約締結をする際は、自分のスマホを画面上でアプリ内の契約書にサインをする。管理人側も自身のスマホアプリへサインをし、これで契約完了になる。物理材(紙)へペンでサインすることもなく、契約が完了した。
以前、契約していたアパートでは、契約書を持って市役所の分室に行き、住所登録をする必要があったが、BoYuの場合はスマホアプリからデータが共有されることで、行政への住所登録も同時に行うことができる。
さらに、鍵の管理は、筆者の部屋がある棟への出入りは、居住区全体で導入しているスマートロックアプリで開閉することになっていて、BoYuはサブ管理者になる。そしてマスターの登録者は自治体になっている。
アパート個々の部屋の管理はBoYuが行っているが、自分の部屋のキーはパスコードでロックができる。パスコードのナンバーは、スマホアプリでいつでも自分で変更できる。筆者の場合は前の住民が掃除のため1日だけ出入りする必要があったので、契約の翌日に自分でパスコードを変更した。
また、スマートロックアプリからは、数時間だけ有効となるナンバーを発行することもできる。たとえば宅配便が届く時に、配達員にアパート入り口のナンバーを伝えて、部屋の外に荷物を置き配してもらうような使い方が可能だ。
メンテナンスなどの予定もスマホのチャットで告知される。一度水回りで不具合があって管理人を呼んだ時も、チャット内で写真を添付して不具合の状況を伝えたことで、とてもシンプルに連絡でき、すぐ修理に来てくれた。こういったコミュニケーションができるのは、アパート全体が共通のスマホアプリで結ばれ、全住民が同じインフラを使えるからだ。
デジタルになることで生まれる可能性
さらに、スマホアプリの契約書は、アプリ内で有効期限が表示され、更新や中断もその場で行える。次の家賃支払日まで何日あるかなど、契約中のデータをライブで見ることができる。電気・水道代も同じアプリで管理され、スマートメーターで日次の消費を知ることができる。
もちろん、家賃の支払いもスマホアプリ内で請求が起票され、ウィーチャットペイのスマホ決済で支払う。このシステムはBoYuの管理している複数のアパートで共通だ。アプリでグループ内の他の部屋を探すこともできるし、良い部屋が見つかれば予め決められた少額の手数料で住み替えることができる。まとめて相場を調べることもできるので、不公平感を抱くこともない。
深センにおいても、以前のアパートでは契約書は紙で、鍵は物理的なカードキーだった。出先で急に住所証明が必要になることはあるし、カードキーを忘れて外出した時には不動産管理会社に電話して、誰かに来てもらうまで数時間も部屋の前で待つ必要があった。また、コロナ禍で深センを長く離れた時は、カードキーそのものの有効期限切れてしまった。スマホアプリなら、そういった心配は一切ない。持ち歩くものがひとつ減るのは快適だし、いつでもどこでも証明書類が出せるのはありがたい。
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DXとは、アナログ社会のすべてをデジタルに置き換えることではない。それをやろうとすると、あらゆるシーンで障壁にぶつかることになり、DXは停止してしまう。トランスフォーメーション(変容)のためには、何かを諦めることも必要だ。このアパートの場合は、スマホを持たない人との契約を切り捨てることで今のサービスを実現している。
こうした割り切りは、住民の平均年齢が若く、多くが地方からの出稼ぎのため、短期間で住民が入れ替わる深センならではだ。そして、この街のデジタル・トランスフォーメーションのスピードは他の街より早い。