2021年3月に福岡県北九州市内の鉄道駅ホームにて、視覚障害者のための歩行アシスト機器「seeker(シーカー)」の実証実験が行われた。seekerは、世界初のスタンドアローンで動く、音声・振動を使った視覚障害者のための歩行アシスト機器だ。眼鏡型のセンサーで周囲の状況を把握し、駅ホームの端などを検知。連動する視覚障害者が持つ白杖に取り付けた振動装置が振動して事前に危険を知らせる機能を持つ。これにより、視覚障害者の駅ホームからの転落事故を未然に防ぐ効果が期待されている。
実証実験はseekerを開発した株式会社マリスcreative design(本社:東京都墨田区)、国立大学法人九州工業大学などと、実験の場所を提供した筑豊電気鉄道株式会社、北九州高速鉄道株式会社(北九州モノレール)の交通事業者及び北九州市の協力によって行われた。小倉駅など、実際の複雑なホームの状況や周囲に他の歩行者がいる状況にもseekerが対応できるようシステムが検証された。この検証を踏まえ、製品化に向けたシステム完成をめざすという。
マリスcreative designは2018年設立のハードウェア・スタートアップで、福祉機器の企画・開発・設計や設計業務のコンサルタントなどを中心に事業を展開している。今回、実証実験を終えた同社代表取締役の和田康宏氏にお話を伺うことができた。
福祉機器の研究を経て大手メーカーへ
和田氏が3歳の頃、母親が事故に遭い障害者となった。母親と生活する中で、日常行動の不便さを知ったり、母に向けられる他人のおせっかいな視線(そこには善意のものもあったが)を感じたりしてきたという。「機械いじりが好きだったので、いつか母のような障害者が便利に暮らせるようなものを作りたいという思いがありました」(和田氏)
和田氏は九州工業大学の大学院に進み、「人間機能代行システム研究室」の1期生となった。ここは福祉機器を専門にあつかう研究室で、全国でも珍しい存在だ。しかし、「研究」と世の中にものを出していく「社会実装」は違う。「研究だけをしていたいわけではない。作ったものを社会に出していきたい」と言う思いから、研究室を出て、大手メーカーに就職し、光ディスクのファームウェア(FW)の設計に携わることにした。
しかし、消費者向けの事業を志向する和田氏は、さらに別の大手電機メーカーに転職することに。そこでは一眼レフカメラのFWの技術開発を担当し、新しいレンズシステムの提案も行った。会社には既存システムにこだわる人も多く、当初は反発もあったが、今ではその時のレンズシステムが主流になっていると話す。その後はスマートロックやプロジェクターのシステム、ロボット犬の足回りの制御などにも関与し経験を積んだ。そして自身のシステム設計スキルについても自信を深め、当初の目的に立ち戻って福祉機器の開発に戻ることを決意。半年間準備の後、2018年6月に株式会社マリスcreative designを立ち上げた。
「製品化」のサポート事業が創業時の収益源に
同社の事業は、自社で福祉機器の開発をすることと、他社のシステム設計や製品化をサポートすることだ。後者については、自身が起業してから周囲を見るに、「製品化」に対する意識が薄いスタートアップが多いことに気づいたためこれを始めた。
試作品を作っても、その先どうしていいかわからない。あるいは商品化にこぎつけても製造は外部に丸投げ。販売後クレームが来てはじめて不具合に気がつき「さあ困った」というスタートアップを見てきた。こうした状況について「これはまずい」と感じ、製品化の部分についてサポートを行いはじめたのだという。
大企業はそれぞれこれまでの経験を反映し、改善のプロセスを重ねた製品化のノウハウを持っているが、それは門外不出の秘伝だ。スタートアップには斬新なアイデアがあり、試作品を作るところまではできても、製品化やそれを改善していくノウハウは無い。和田氏は大手メーカーでの経験を活かしそこをサポートしてきた。
同社は創業当初、外部からの出資を受けず、スタートアップの製品化サポート事業での売上を、開発原資にあてていた。「そもそもハードウェアのスタートアップは出資を受けづらい面があります。さらに福祉機器はマーケットが小さいと思われていました」(和田氏)
開発にリソースを集中
しかし、最近は他社の製品化サポートに割くリソースを減らしはじめているのだという。サポートで稼ぎ、それを開発につぎ込むスタイルで1年半ほどやってみたが、それではスピード感が足りないことに気づいた。
「当初考えていたスピード感より遅いと感じたからです。この先にやりたいことがたくさんあるのです」(和田氏)
たくさんある“やりたいこと”とは何なのか。現在のマリスcreative designの主要な事業は、福祉機器の開発となっている。しかし将来にわたって障害者向けの商品だけを作っていくというわけではない。その先に、障害者と健常者を繋げる新しい生活様式の提案も可能だと和田氏は考えている。
例えばseekerに用いた技術は、大型商業施設における室内モビリティの安全装置や電動車椅子の安全装置として転用が可能だ。さらに今後 seekerに機能を付加していけば、視覚障害者だけではなく高齢者向けの「行動分析可能な杖」として活用できるかもしれない。
事業領域拡大のためにも開発資金は必要だ。出資先を探すため、昨年からスタートアップ向けのアクセラレータープログラムにも積極的にチャレンジをはじめたという。和田氏は今後について、「今年の夏ぐらいまでが勝負だと思っています。そこまでに出資を集めたい」と決意を示した。