2018年度の開業率は2.9%、全国46位。そんな新潟県で産官学が連携し、起業家を生み出すスタートアップエコシステムをつくる動きが加速している。中心人物の1人で、新潟大学経済科学部でアントレプレナーシップ(起業家精神)の育成に取り組む伊藤龍史准教授に話を聞いた。
伊藤氏は早稲田大学商学部を卒業後、同大大学院商学研究科修士課程・博士後期課程を経て2009年に新潟大学に着任した。2012~13年、アメリカ・シリコンバレーにあるサンノゼ州立大学で、現地のベンチャー企業の研究に取り組む中で、アントレプレナー(起業家)を次々と生み出すようなエコシステム(生態系)が広がっていることに興味を持ち、「アントレプレナーシップを軸足に、教育や研究活動をやっていこう」と考えるようになった。
米どころ、酒どころとして知られ、金属や工作機械、繊維といったさまざまな産業が県内各地で集積してきた新潟県。しかし、ここ数年の開業率は約3%で推移し、全国平均を1%以上も下回る。
そんな新潟県だが、ここ数年、スタートアップ関連の取り組みが次々と始まっている。2019年から2020年にかけて、県内8市町で、起業家と支援者らをつなぐ「SN@P(スナップ)」(新潟市)など民間のスタートアップ拠点が開設された。2020年3月には、新潟ゆかりの経営者らが集まり、ベンチャー・スタートアップ支援を行う新潟ベンチャー協会を設立。伊藤氏もアドバイザーとして参画している。
また、県は2020年3月、県内で活動する起業家や有識者らを集めた「スタートアップ育成プロジェクトチーム」(座長・伊藤氏)を設置。翌21年3月には、民間スタートアップ拠点での起業家や支援者らの交流促進や県内企業でインターンシップを受け入れる仕組みづくり、ファンド組成などを盛り込んだ提言を公表した。
さらに、県は公益財団法人にいがた産業創造機構(NICO)、関東経済産業局と共同で、スタートアップを支援する国の「J-Startup プログラム」の地域版「J-Startup NIIGATA」を開始。2021年5月26日には、事業の対象企業として、県内に拠点を置き、健康医療やIT、農業、観光などの分野で先進的な事業を進める20社を選定し、官民による集中支援を測ることとした。
「県内各所での取り組みが、大きなうねりになった」
こうした動きについて、伊藤氏は「誰かが旗を振って始めたわけではなく、それぞれの小さな取り組みが、2012~13年ごろから合流し始めて、ここ数年で大きなうねりになったのだと思う」と話す。ちょうどその時期に、県や経済団体などで創業支援を行う担当部署に意欲的な人材が集まったり、県にゆかりのあるベンチャー企業が誕生したりしたことが、現在の状況につながっているからだ。
「大手企業からの仕事を請け負ってビジネスが成り立っていた町工場が、3Dプリンターなどの技術革新や、中国企業の台頭などで仕事を奪われ、これまで通りではいけないという雰囲気が、各企業で出てきたのではないでしょうか。新潟の技術は一流ですが、マーケティング力に課題があると言われてきたことも、危機意識を高めたのかもしれません」(伊藤氏)
伊藤氏も2013年にアメリカから帰国し、再び新潟大学に戻った。帰国後はゼミのやり方をがらりと変え、専門書の読解から、アントレプレナーシップを持った人とマーケッターの育成にかじを切った。ゼミでは県内の企業から出された経営戦略やマーケティング上の課題に対し、学生たちが解決策を提案するようになった。
「一緒に課題解決に臨んだ企業はこれまで30~40社に上ります」と伊藤氏。ゼミの活動は起業を志す学生たちやマーケティングに関心のある学生たちの間で広まり、ゼミの倍率は4.5倍にはね上がった。
その一方で、伊藤氏は県内各地で行われているビジネスコンテストなど、スタートアップやアントレプレナーシップに関係したイベントや会合に、片っ端から顔を出した。「ここでちゃんとやれば、新潟が変わるんじゃないかという期待感があり、呼ばれれば顔を出していました」
起業を志す学生の受け皿「ベンチャリング・ラボ」
さらに伊藤氏は2019年、起業に意欲的な学生を支援する「ベンチャリング・ラボ」を研究室内に設置した。現在、他大学・大学院を含む学生約100人がここで活動している。「ゼミに入れなくとも、やる気のある学生たちの受け皿を作りたいと考えました」
ラボでは主に6つの活動を行っている。(1)ベンチャー企業のインターンシップやイベントなどの情報を共有し、学生の相談も受け付ける情報ハブ(2)国内外の起業家の話を聞き、交流する「ベンチャリング・セミナー」(3)実践型ビジネスプランコンテスト「JMBC(ジャパン・ビジネスモデル・コンペティション)」の地方大会である「新潟ラウンド」の運営。さらに、(4)新潟県内でアントレプレナーシップ教育に取り組む教員同士がつながる「新潟アントレ教育ネットワーク」(5)アントレプレナーシップ研究(6)教育プログラムの作成だ。
「(5)アントレプレナーシップ研究」では、ベンチャリングの力量を測る指標の開発を進める。筆者は、アントレプレナーシップへののめり込み度合いを測る「アディクション」の研究に興味を引かれた。
「アントレプレナーシップは、人の気持ちをかき立てる、熱量を上げるのに合いやすいテーマです。そこにどっぷりつかってしまい、思いは満足しても、採算などを捨ててしまう人がいたら、ちゃんと止めなくてはいけません。学生たちの後押しをする以上、まずい時には止めるというアントレプレナーの医師のような役割も果たすべきだと考えています」(伊藤氏)
「(6)教育プログラムの作成」では、新潟支社があるコンサルティング会社のイードア(本社・東京都港区)との共同研究に取り組む。同社が集めた起業家の経歴から、その意思決定プロセスなどを分析して類型化し、学生の起業家教育に生かす。千葉県と新潟市に本社があるソフトウェア開発会社、フラーとは、未来のCEO、CTOの育成を進める。さらに、新潟大学の他の教員と連携したベンチャー企業の規模や実情に合った会計教育プログラム作成や、東京をはじめとした新潟県外でアントレプレナーシップ教育に取り組む団体や大学との連携も模索している。
ラボは設置してまだ日が浅いが、そこでの取り組みは少しずつ成果が出ている。ラボや伊藤ゼミからは、これまでに5人の起業家が誕生している。
伊藤研究室の学生たちの話を聞いていると、起業に意欲的な学生が多いことに驚く。伊藤氏はこう分析する。「新潟大学出身で、県内の自治体や企業で働いている人たちからは、『実は学生の時に起業のようなことをしたかったんだけれど、環境がなかった』という話もよく聞きます。起業を志す学生が増えているのではなくて、発見されやすくなっているのだと思います」
エコシステムを動かす「にいがたネットワーク」の構築へ
伊藤氏は、自身の研究室から「新潟におけるスタートアップエコシステムのエピセンター(震源地)をつくりたい」と話す。「大学から、社会全体にアントレプレナーシップを広めていきたい」
伊藤氏や研究室の活動が広まるにつれて、新潟出身の起業家や企業幹部からも、連絡が寄せられるようになった。帝国データバンク新潟支店が2020年10月に発表した調査結果によると、県出身者が社長を務める県外企業は全国に3951社ある。全国では13番目の多さだ。「話を聞くと、県外に出て会社を大きくしながら、どこかで新潟のことを気にしていたそうです。こうした方々を今後、どう巻き込んでいくのかが課題だと考えています」
伊藤氏は「新潟には、人材や支援者、技術、研究機関といった起業していく際に必要なものはほとんどそろっています。これらをつないで、『にいがたネットワーク』のようなものを可視化したい」。大学内でも、企業などに研究シーズを売り込むためのゆるやかなネットワークづくりを模索している。“にいがた”発のスタートアップエコシステムが今後、どのような展開を見せるのかが楽しみだ。