「野蛮な成長」が企業を育てる?
「野蛮な成長」という言葉が中国のメディアではしばしば使われる。
中国は成長途上の国なので、新しい画期的な技術や手法がビジネスに投入されると、そこは法的に空白地帯で、「なんでもあり」「やったもの勝ち」の爆発的拡大が起きる。そこに多額の投資資金が集まり、無数のスタートアップ企業が育っていく。これが「野蛮な成長」である。
しかし、そこには当然、問題が噴出する。一通り問題が出尽くしたあたりで当局が規制に入り、法律ができて、「野蛮な成長」は終わる。新しいことをやる時、先のことは誰にもわからない。だったら事前に周到に計画するよりは、とにかくやらせてみて、問題が出たら誰かを見せしめにし、そして新しいルールを世の中に知らしめ、新技術の都合のよいところを活用する――というのが中国の統治者のいつもの手段である。
顔認証技術が中国の社会に広く知られるようになったのは2012年、北京~上海高速鉄道(中国版新幹線)の開通で乗車前の安全検査に使われたのが契機とされる。その後、2016~17年ごろからはビジネスの領域でも、小売やサービス業などを中心に各種の顧客管理システムや販売促進ツールなどで利用されるようになった。中国の顔認証で「野蛮な成長」が始まったのは、この頃からである。
「誰が紹介した客か」を顔認証で証明
顔認証の「野蛮な成長」が最初に注目を集めたのは、新築マンションの販売現場でのことだった。
日本でもそうだが、マンションの販売側からみると、モデルルームに来る客は2種類に分けられる。ひとつは、デベロッパー自身の広告を見たとか、物件の近所に住んでいて、たまたま見かけたなどデベロッパー自身が集客した客。2つめは地場の不動産仲介業者などの紹介で集客した客である。当然、後者の場合、成約すればデベロッパーは仲介業者に紹介料を支払うことになる。
日本円で数千万円、場合によっては億円単位のマンションの場合、手数料の額も馬鹿にはならない。デベロッパーはできる限り自社で客を集めたいし、仲介業者は自分が紹介した客をきちんとカウントしてもらわなければ商売にならない。そこで双方がモデルルームや店頭にカメラを取り付け、来店客すべての顔データを取り込み、顔認証のシステムで照合してどちらが先に接触した客かを明らかにする――というやり方が広まった。
加えて、そこにはもうひとつの事情がある。デベロッパーが自身で集客した場合、紹介料は発生しないので、そのぶんはデベロッパーの儲けになる。購入者本人にも仲介業者にもメリットはない。そこで購入希望者と仲介業者が手を握り、仲介業者の紹介で物件を知ったことにしてコミッションを発生させ、それを両者で折半するという行為が横行していた。
この手法が広まると、購入者の大半が仲介業者の紹介に流れてしまい、デベロッパーは大減収になる。そこでデベロッパーはモデルルームでの顔認証の機能を強化し、下見に来た客の顔データの確保に躍起となった。購入希望者の方は、顔を記録されてしまうと具合が悪いので、フルフェイスヘルメットをかぶったまま下見をする客が現れ、その様子がSNSで拡散されて大きな話題になった。
AIによる来店客の感情分析も
小売やサービス業でも顔認証を活用した顧客管理システムが広がっている。
今年3月、江蘇省張家港市の市場監督管理局が、同市内にある全国チェーンの生活雑貨店に査察に入ったところ、店内のカメラで来店客の同意なしに顔データを収集、分析していたことが明らかになった。この店では、顔認証の機能を利用することで、「初回の来店客か」「なじみ客か、何回目の来店か」「店の会員になっているか」といった事項を即座に判定し、接客などに利用していた。
さらにこの店が入居する同市内のショッピングモールでは、店内35カ所に、やはり顔認証システムを導入したカメラを設置。1日の来店客数、男女比、年齢分布、新規来店顧客とリピート客の数、リピート客の年齢・性別、来店回数などのデータを収集していた。いずれも客の同意は得ていなかった。
また、今年3月15日の「世界消費者の権利の日」に国営の中国中央テレビ局は、顧客の同意なしに顔データを収集、顧客管理や販売促進などに活用していた大手企業2社を取り上げ、強い批判的なトーンで伝えた。
それによると、浴室やトイレなどの水栓金具や衛生陶器を製造販売する米国系企業は、中国国内の1000店を超える販売店、代理店に国内のIT企業が販売する顧客管理システムを導入。来店したすべての客の顔データを収集し、それらに個別のIDを割り当て、AIが識別した性別や年齢、メガネの有無、アジア系人種かどうか、といった項目とともに保存していた。そこにはAIによる感情分析のシステムも組み込まれており、客の表情の動きなどから来店時の精神状態を判定する機能もあった。
またBMWやアウディ、ボルボなどの海外ブランドの車を扱う大手ディーラーは、中国国内の100店舗以上で顔認証の機能を備えた顧客管理システムを導入。やはり来店客の同意なく顔データを収集していた。さらに、これまでに商談記録のある来店客については、その収入や資産状況、家族構成、趣味といった属性と顔データを結びつけていた。自社の他店舗への訪問状況が確認できる機能もあり、客との商談を有利に運ぶ狙いがあるものとみられる。これらのデータはスタッフのスマートフォンで即座に見ることができた。
中国国内には現在、顔認証システムの関連企業だけで8000社近くが存在し、毎年1000社以上のスタートアップ企業が新たに誕生しているという。競争が激しく、低価格のシステムが次々と市場に出てくることが顔認証の普及を後押ししてきた。
「個人情報保護法」は草案段階
このように顔データの収集が現場で野放図に行われてきた背景には、顔認証に関する法律が未整備だった状況がある。
中国の民法典111条には「いかなる自然人の姓名や生年月日、身分証番号、生体識別情報、住所、電話番号、Eメールアドレス、健康情報、行動記録などを不法に取得、使用、加工、伝達してはならない」という趣旨の条文がある。しかし、この民法典が正式に施行されたのは2021年1月1日のことで、まだ半年ほどしか経っていない。
また個人情報の保護に中心的な役割を果たすと期待される「個人情報保護法」は第2次草案が今年4月29日に公開されたばかり。草案には個人情報の収集は、その目的を明示し、収集は必要最小範囲にすること、必ず本人の同意を得ること、自発的な提供であることなどを求める条項がある。しかし、これも本格的な議論はこれからだ。正式な法律として施行されるにはしばらく時間がかかる見込みだ。
これ以外にも中国には「ネットワーク安全法」「消費者権益保護法」「ネットワーク情報保護の強化に関する決定」といった関連法規があり、それぞれに消費者の個人情報の保護は規定されているものの、中身は抽象的で、所管官庁もバラバラのため、有効に機能してこなかったのが現状だ。
しかし、上述した今年1月の民法典の正式な施行をきっかけに、政府は顔認証に代表される生体識別情報の保護と管理に本気で乗り出している。先に記したいくつかの企業にも、当局の査察が入り、顧客に無断で顔データを収集、分析していた機器やシステムは強制的に撤去されたと報じられている。
「多産多死」のダイナミズム
ビジネス現場での顔認証の利用は、現状ではまだグレーな部分が多い。しかし全体として中国社会の顔認証に対する見方は肯定的だ。プライバシーに対する社会の関心は高まってはいるものの、顔認証の利便性の高さを国民は積極的に評価しており、それ自体への忌避感は強くない。全国情報安全標準化技術委員会が発表した「顔認証応用公衆調査研究報告(2020)」の調査では、回答者の60%以上が「全体としてメリットがデメリットを上回っており、個人の知る権利に配慮したうえで積極的に進めるべきだ」との意向を持っているとの結果が出ている。
顔認証の「野蛮な成長」は終わろうとしている。今後は「野蛮な」企業の淘汰が進み、そこから抜け出したいくつかの企業を軸に、安定的に市場は拡大していくだろう。この「多産多死」のダイナミズムが中国経済の活力の源泉で、顔認証の技術も例外ではない。