2023年3月27日、理化学研究所をはじめとする研究グループが、国産量子コンピューター初号機のクラウド経由での外部利用サービスを開始した。国内ではこの他にも、2021年に国立研究開発法人産業技術総合研究所(産総研)が「組合せ最適化問題」を解くことに特化した量子アニーリングマシンを開発した他、富士通株式会社が「デジタルアニーラ」を、株式会社日立製作所が「CMOSアニーリング」を、日本電信電気株式会社(NTT)が「LASOLV」を開発するなど、次世代型デジタルコンピューター(イジングマシン)も複数登場している。
このように、量子コンピューターや量子アニーリングマシン、イジングマシンの開発が進む一方で、これらをどのようにビジネス活用するかは模索中だ。
そうした中、株式会社NTTデータ(本社:東京都江東区)と株式会社香味醗酵(本社:大阪府大阪市)が、「組合せ最適化技術を活用した匂い再構成技術に関するパートナーシップ契約」(2023年4月1日から)の締結を発表した。
これは、2022年11月から、NTTのイジングマシン「LASOLV」を活用して両社が取り組む「少数の匂い成分から膨大な匂い・香りを作り出す組合せ最適化に関する共同実験」の良好な結果を受けたもので、新たな“匂いビジネス”の創出を目指すという。
具体的にどのような実験を行い、どういった成果を得たのか。また、どのような匂いビジネスを生み出そうとしているのか。2023年3月27日に実施された記者発表を取材した。
匂いを定量化できる2つの特許技術
まず香味醗酵代表取締役の久保賢治氏が登壇し、匂いを定量化(数値化)する独自技術について説明した。
香味醗酵は、大阪大学産業科学研究所教授の黒田俊一氏が開発した技術をベースに持つベンチャー企業だ。
同社は、人が嗅覚受容体(鼻の穴の奥にある匂い分子の受容体)で匂いを感じる際に、鼻の細胞内に流入するカルシウムイオンの濃度を、光の強弱に置き換えて観測できるようにする技術と、人が持つ約400種の嗅覚受容体を模倣した人工細胞を、ガラスプレート上に網羅的に配置した人工鼻(「ヒト嗅覚受容体発現細胞アレイ」)の、2つについて特許を取得している。
これらを利用して、「匂いマトリックス」という匂いの定量化(数値化)手法を提唱している(下図参照)。これは、人工鼻に配置された約400個の(人工)嗅覚受容体のうち、どの細胞が、どれくらい反応したかをグラフ化できるもので、これまで計測が難しかった、匂いの経時変化も可視化できるという。
「これは、(匂いの強さが)音楽の(音質補正)イコライザーのように(リアルタイムに)上下して表されます。そのため、匂い始めと、匂いのピーク、匂いの終わりまでの全てを提示することができます。まさに人間の鼻と同じ反応を測定できるというわけです」(久保氏)
こうした技術や手法を使って香味醗酵では、世の中にあるさまざまな匂いをデータベース化し、そのうえで、「匂いの再構成」を行おうとしている。匂いの再構成とは、ターゲットとなる匂いを、別の匂い成分の組合せで再構成する試みだ。
例えば、フレグランス商品によく使われるラベンダーの匂いは、成分分析器にかけると50種類以上もの成分が検出される。そのため、ラベンダーの香りを、オリジナルの匂い成分を使って再現しようとすると、膨大なコストと時間がかかってしまうことが多い。
そこでラベンダーの匂いを「匂いマトリックス」でグラフ化し、そのグラフと同じような形状になるよう、安価かつ少ない数の、別の匂い成分で再構成すれば、コストを大幅に下げつつ、ラベンダーの匂いを再現できるようになるという。
「我々は、ラベンダーの香りをたった3種類で、バラの香りを4種類の香料で再現することに成功しました。……(中略)こうした匂いの再構成を、さまざまなところで利用しようと考えています」(久保氏)
こうした匂いのデータベース化や再構成を進めた先に、香味醗酵が見据えているのが、匂いを「転送」する新インフラの構築だ。具体的には、匂いデータをオンラインでやり取りし、そのデータをもとに、専用のデジタルディフューザー(「Meta scent Diffuser」)で再現(再構成)することで、匂いを「転送」するという。
そして、このデジタルディフューザーが世界中に広がったときに、「メタバースなどの仮想空間で、いろいろな匂いを感じられる世界」が実現し得るだろうとのことだ。
「仮想空間の中で、いろいろな匂いをプロモーションに使ったり、ゲーム内で匂いを使ったりするようになる可能性が非常に高いと思われます」
イジングマシンの利用法は?
では、こうした匂いの定量化技術を持つ香味醗酵と、NTTデータの共同実験にはどのような狙いがあったのか。続いて、NTTデータ技術革新統括本部の矢実貴志氏が登壇し、両社が行った共同実験の内容と、その成果について説明した。
まず実験内容については、香味醗酵が行なっている「匂いの再構成」において、「高度な分析技術が必要であり、そこにNTTデータのデータ分析効率化の技術を活用している」と説明した。
「先ほど説明いただいたように、香味醗酵さんには匂いのデータベースがあり、さまざまな匂いのもとになるデータが蓄積されています。そうしたデータ化された匂いのうち、どの匂いを組合せると、ターゲットの匂いに近いものを生み出せるか、そこが知りたいところです。しかし現時点では、高い計算負荷がかかり、時間もかかるため、やりたくてもなかなかできないと。そこに、まさに組合せ最適化の技術を活用できるのではないかと考えました」(矢実氏)
具体的な課題は2つ。ひとつ目が、より多くの匂いデータの母集団から適切な組合せを探したいが、既存の手法だと、「1000種程度の組合せから計算するのが限界」だったことだ。共同実験では、イジングマシンを使い、この母集団の拡張が可能かどうかを検証したという。
ふたつ目の課題は、デジタルディフューザーの開発に関することだ。香味醗酵が開発するディフューザーからは、状況に合わせてさまざまな香りが発生する必要がある。そのためには、匂いのもととなるカートリッジを複数入れなければならないが、ユーザーの部屋などに設置するものであるため、例えば、100種も200種ものカートリッジをセットするのは現実的ではない。そこで共同実験では、できるだけ少ない香料の組合せで、ターゲットとなる複数の匂いの再構成ができないかを検証したという。
矢実氏は、どちらの課題に対しても「非常にポジティブな結果が得られた」と胸を張る。ひとつ目の母集団の拡張については、もともとの約8倍にあたる「8000種類」まで拡張することが可能になったという。
「『8000種類』というのは、実際にさまざまな匂いを表現するときの選択肢として、これくらいあると、かなりカバーできるというビジネス的なマイルストーンとして掲げていた数値です。これを無事達成することができました」(矢実氏)
ふたつ目の、少ない香料でターゲットとなる匂いを再構成する点については、既存技術では100種類強の香料が必要だったが、最小の組合せで最適な答えが出る数理モデルを構築したことで、「15種類ほどの香料」で、ターゲットとなる複数の匂いの再構成ができたという。
こうした結果を受け、両社は「組合せ最適化技術を活用した匂い再構成技術に関するパートナーシップ契約」を締結。これまでの共同実験のパートナーから、匂いビジネスの創出を目的としたパートナーへと関係を進化させたとのことだ。
本事例はイジングマシンの新たなユースケースとして注目を集めている。今後の展開も注視したい。