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【日本人が知らない 、世界のスゴいスタートアップ Vol.13】新材料発見を加速させる「セルフドライビング・ラボ」

画像はイメージです

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連載「日本人が知らない、世界のスゴいスタートアップ」では、海外のベンチャー投資家やジャーナリストの視点で、日本国内からでは気付きにくい、世界の最新スタートアップ事情、テック・トレンド、ユニークな企業を紹介していきます。今回のテーマは、「セルフドライビング・ラボ」です。(聞き手・執筆:高口康太)

* * *

「アトム(物質)からビット(情報)へ(From Atoms to Bits)」

 米マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボの創設者として知られる、計算機科学者ニコラス・ネグロポンテが繰り返し訴えたフレーズだ。その予言通り私たちの社会において情報が占める重要性は年々高まっている。

 私も、ビデオ会議で取材し、パソコンで原稿を書いて、メールで納品して……。という仕事が重なると、「この世は情報でできている」という幻覚にとらわれそうになるが、どっこい世の中は物質でできている。情報だけで済む世界はすさまじい勢いで便利になっていくが、物質がからむ分野はそのスピードに追いつけない。アトムとビットでは進化のスピードが違うわけだ。

 この違いは、どうしようもないことだと思っていたが、爆速で進歩するビットの力、すなわちAI(人工知能)を使って、アトムのイノベーションを加速させようという興味深いアプローチが進んでいるという。世界のスタートアップ事情に詳しい台湾の投資家、マット・チェン氏が紹介してくれた。

鄭博仁(マット・チェン、Matt Cheng) ベンチャーキャピタル・心元資本(チェルビック・ベンチャーズ)の創業パートナー。創業初期をサポートするエンジェル投資の専門家として、物流テックのFlexport、後払いサービスのPaidyなど、これまでに15社ものユニコーン企業に投資してきた。元テニスプレーヤーから連続起業家に転身。ジョインしたティエング・インタラクティブ・ホールディングス、91APPは上場し、イグジットを果たしている。

逆ムーアの法則

マット・チェン(以下、M):いかにイノベーションを起こすか。難しい課題ですが、もっとも重要な要素の一つは新材料の発見です。イノベーションにはさまざまな形態がありますが、その中でももっとも根源的な要素と言ってもいいでしょう。

 一例をあげましょう。「グラフェン」をご存知ですか。炭素原子を六角形の格子状に配列した二次元シート構造の新材料です。2004年に初めて生成方法が確立した新材料で、軽さ、そして優れた導電性と熱伝導性という特性があり、半導体や電池、医療など幅広い分野で活用できる革命的な素材です。グラフェンという新材料の発見と製造方法の確立が多くの分野で新たな技術革新を引き起こしたわけです。

 このように新材料の発見は重要なのですが、それだけに新材料発見の遅れはあらゆる産業の発展を遅滞させる足かせとなります。そして現在、新材料発見の難易度は飛躍的に上がっており、人類にとって、産業発展にとっての大きな障害となっています。

――なぜ新材料発見の難易度が上がっているのでしょう?

M:これまで新材料の開発は、人間の膨大な努力によって成し遂げられてきました。多くの研究者がさまざまな実験を積み重ねることによって、最適解を見つけ出してきたのです。かの発明王エジソンは電球のフィラメント(発光部)として最適な材料を見つけ出すために数千回もの実験と失敗を重ねたことはよく知られています。

 しかし、現代の研究者に求められている条件は、エジソンよりはるかに過酷です。容易に見つけ出せる新材料はすでに掘り尽くされており、次世代の新材料はより複雑な変数を満たすことが要件となります。合成技術の高度化もあいまって、必要な実験の数が指数関数的に増加しているのです。このままでは新材料の発見ペースの遅滞は免れられません。ひいいては人類のイノベーション全体の足をひっぱることにもなりかねないのです。

 新材料発見の難易度上昇。その最前線に立っているのが製薬です。

――新薬開発は難しいと聞きますね。大企業が大金を注ぎ込んでも失敗してしまうこともしばしば、それで経営が傾きかねないという。

M:その悩みを表す言葉がイールームの法則です。創薬における研究開発費は9年ごとに倍増していくという経験則です。イールーム(Eroom)とはムーア(Moore)のつづりを逆にしたもので、つまりは逆ムーアの法則というわけです。

 ムーアの法則とは「半導体の集積率は18~24カ月ごとに2倍になる」という半導体業界の経験則です。同一価格の半導体の性能が18~24カ月ごとに2倍になる、あるいは同一性能の半導体であれば価格が半額になることを意味します。ですから、私たちが使うパソコンやスマートフォンは買い換えるたびに飛躍的に性能が向上していますし、劇的な価格低下によってかつては考えられなかった利用法、たとえばIoT(モノのインターネット)センサーを多数設置することによるビッグデータの収集や、大量の計算が必要となる生成AI(人工知能)の発展が可能となりました。ムーアの法則が関連業界の進化にもたらした影響は驚くばかりです。

――今流行りのAIも、超高速のコンピューターで、膨大なデータをトレーニングするという力業が根底ですもんね。ムーアの法則で半導体が進化していなければ、とても実現不可能という。

M:このように見ていくと、製薬業界の苦境がおわかりいただけるのではないでしょうか。ムーアの業界の逆、あらゆる角度から関連業界の足を引っ張るわけですから。現在では新薬が市場に出るまでに必要なコストは、約20~30億ドルにもなるといわれています。そこから推し量ると、その前提となる新薬候補化合物を1つ発見するのには、更に大きな費用が必要なことがわかります。資金に加えて開発にかかる時間も長期化しており、年単位の時間が必要となりました。

 製薬業界が特に深刻ですが、材料工学など他の分野でも新材料発見の難易度は増しています。新材料発見のために必要な作業は指数関数的に増加しているため、探索すべきテーマであっても後回しになっている分野もあります。体系的な探索が困難になっているわけです。

AIとロボット

M:この苦境を変える手立てが模索されています。AIとロボットの組み合わせによって、新材料の開発に新たな可能性が見えてきました。

 まずはAIの可能性についてです。グーグル傘下のAI企業ディープマインドは2023年末、AIツール「GNoME」(Graph Networks for Materials Exploration)を使用して220万種の無機結晶構造の候補を特定したと発表しました。従来の研究ペースでは800年分に相当する数ですが、これをわずか17日間で実現したのです。マイクロソフトの研究グループも今年初頭、AIツールの成果を発表しました。リチウムイオン電池の改善に必要な新素材を探し出すため、約3200万種の候補からAIが絞り込みを行ったのですが、わずか80時間で18種類にまでしぼりこんだのです。

――AI、すごい。これでイールームの法則ももう解決では。

M:ただし、これはあくまでAIがコンピューター上で行った予測にすぎません。見つけ出した候補が本当に期待されたような性能を持っているかは、実際に生成してテストする必要があります。このプロセスが人間の手作業に依存したままでは、ここがボトルネックとなってしまいます。

 そこでもう一つのチャレンジ、ロボットの導入が必要となります。ロボットによって素材生成の実験を自動化するのです。たんに作業を代行するだけではなく、いくつかの製法を同時に試す、失敗からフィードバックして再度チャレンジするという一連の流れを繰り返す高度な作業が可能となっています。

 こうした実験自動化に取り組んでいるスタートアップ企業の一つにAtinary(アティナリー)があります。同社は2019年に、ハーバード大学で経済学博士号を取得したHermann Tribukait(ハーマン・トリブカイト)、スイス・チューリッヒ大学および中国・天津大学で量子化学の博士号を取得したLoïc Roch(ロイック・ロッシュ)の2人によって設立されました。Loïc Rochはハーバード大学のポストドクターとして、化学とAI研究に取り組みました。トップジャーナルに50以上もの学術論文を発表した、量子化学とAIにおけるトップ研究者です。

Atinaryの公式Youtube動画より

 彼らが提案したソリューションが「セルフドライビング・ラボ」(SDLabs、Self-Driving Labs)です。AIが素材生成のシミュレーションを行ったあと、ロボットが実際にその素材を生成するのです。この過程は自動化されています。手間のかかる実験の繰り返しはロボットに任せることで、人間の研究者はより高次の研究に集中できるようになるわけです。

――コンピューターの中で完結するわけではないけど、人手をかけずに実験できる、と。

M:さらに、SDLabsには重要なメリットがあります。AIのシミュレーションを実施するには膨大なデータが必要となります。ChatGPTなどの生成AIを作り上げるには、データがなければ始まらないことからもおわかりいただけるのではないでしょうか。ですが、SDLabsでは少量のデータでも実験を開始することができ、その結果もデータとして積み上げ、次の実験へと進むことができます。手を動かして実験しながら、知見を深めていった従来型の研究方向と似たアプローチも可能となるわけです。

 もう一つ、SDLabsの評価ポイントをあげると、プログラミング不要という点です。選択肢を選び条件を入力していく、およそ2時間の作業で利用が開始できます。研究者が導入するためのハードルが引き下げられているという点が強みです。

 SDLabsはさまざまな分野で応用できるソリューションですが、初期的に取り組む領域として製薬、バイオテクノロジー、材料科学がターゲットとなっています。武田製薬(Takeda)、マサチューセッツ工科大学(MIT)、IBMリサーチなどが利用しており、すでに10万件以上の実験がSDLabsで行われました。

 その成果はすさまじいものです。スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETH Zurich)は従来なら10年以上はかかったという実験を数週間で完了させました。MITのAlfredo Alexander-Katz教授は、SDLabsは「研究開発におけるiPhone 」だと、その革新性を高く評価しています。当初2年以上かかると見積もっていたタスクを、たった1週間で完成させてしまったという能力、そして利用法を簡単にマスターできる直感的なインターフェイス、iPhoneによって携帯電話に革命が起きたことと似ているというわけです。

――iPhoneの登場は、モバイル・インターネット産業という新たなビジネス領域を構築しました。今までになかったモノが生まれる、ゲームチェンジャーというわけですね。

M:AIとロボットの活用によって、より効率的かつ低コストで研究開発が推進できるようになるでしょう。人類による新材料探索の旅もより体系的に進められるようになると予測しています。

「AI失業」を心配する人もいると思いますが、人間の役割は失われません。というのも、過去の発明の歴史を振り返ると、発明の多くは体系的な研究の結果ではなく、好奇心や観察力、そして偶然から生まれているからです。

 抗生物質の一種、ペニシリンの発見は代表的なエピソードです。ブドウ球菌の培養実験中、誤ってシャーレに青カビを生えさせてしまいました。普通ならば培養失敗でおしまいとなるところですが、実験を行っていたイギリスの細菌学者アレクサンダー・フレミングは青カビの周囲にはブドウ球菌が生育しないことに気がつき、その理由について研究を進めた結果、ペニシリンが発見されたのです。

 偶然による発見は、イノベーションにおける魅力的な一要素です。そのためには偶然を成果に結びつける好奇心や観察力が不可欠です。AIはこうした能力を人間クラスまで高めることは難しいのではないでしょうか。一方、人間もAIに対してオープンで好奇心を持ち続けることが必要です。そうした姿勢が、AIを活用している中での偶然の発見につながるでしょう。

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 ビットの速度にもついていけなかった。さらにアトムの領域でもスピードアップの革命が起きつつある……。というのは胸躍らせる話題であるとともに、不安もある。

 日本の産業は、過去30年でさまざまな分野でその存在感を失ってきた。材料の分野は日本産業の強みとされてきた。それはビットの世界と遠い存在だったからというのが大きな要因だが、今、その前提が覆されようとしている。

 このチャレンジを乗り切るためには、マット・チェン氏が言うように、AIの活用に対してもオープンな好奇心を持ち続けることしかないのかもしれない。

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ジャーナリスト、千葉大学客員准教授。2008年北京五輪直前の「沸騰中国経済」にあてられ、中国経済にのめりこみ、企業、社会、在日中国人社会を中心に取材、執筆を仕事に。クローズアップ現代」「日曜討論」などテレビ出演多数。主な著書に『幸福な監視国家・中国』(NHK出版、梶谷懐氏との共著)、『プロトタイプシティ 深圳と世界的イノベーション』(KADOKAWA、高須正和氏との共編)で大平正芳記念賞特別賞を受賞。