中国の「低空経済」に注目が集まっている。市場規模は2023年の5000億元(約10兆円)から2026年には1兆元(約20兆円)と倍増するとの推計も発表された。“空飛ぶクルマ”こと「eVTOL(電動垂直離着陸機)」の離発着場整備が急ピッチで進むなど、政府も企業も“前のめり”な姿勢が目立つ。
突然の低空経済の熱狂は、果たしていかなる要因によってもたらされたものか。その裏側を見ていくと、ブームの危うさも透けて見える。
まずは低空経済とはなんなのか、基本的な点を抑えよう。高度1000メートル以下(条件によっては3000メートル以下)の空域を利用した産業を意味する。ウクライナ戦争において一般向けドローンが偵察用途などに有効であることが報じられているが、ドローンを使った撮影や検査業務はすでに一般化しているといってもよい。
これに加えて農薬散布用ドローンもすでに定着している。「ドローンドライバー」は、中国では国家職業資格に指定されており、技能学校も各地にある。ドローン操縦技術を習得すれば、それだけで“食える”ようになると人気の技能・資格だ。
2002年に放送されたNHKのドキュメンタリーに「麦客 中国・激突する鉄と鎌」番組があった。河南省の小麦畑では収穫の手助けをしてくれる季節労働者を「麦客」という。その麦客の中に自身でコンバインを購入し、人力とは比べ者にならない効率で収穫を請け負う「鉄麦客」(コンバインを使う収穫請負人)が登場し、伝統的な麦客が追い詰められているというのが番組の内容だ。借金してコンバインという生産機械に投資し、富を得る農民の姿が印象的だったが、ドローンドライバーはその翻案だ。操縦技術の習得とドローンの機体購入という初期投資に“賭けた”農民が、「流しの農薬散布ドローンドライバー」となって村々を回り、富をつかんでいく。
興味深いのはこうした「流しのドローンドライバー」という職業が生まれると、それをサポートするビジネスも生まれるという点だ。たとえば、世界一のドローンメーカーであるDJIと中国フィンテック企業アントグループは共同で、ブロックチェーンを使った融資サービスを開発した。「流しのドローンドライバー」には安定した身分も資産もない。どれだけ腕利きでも、その真偽を確かめる術はないので銀行での融資は受けられない。だが、ドローンドライバーとしての仕事の契約をプラットフォーム上で行っていると「稼げるドローンドライバーか否か」の判断ができる情報が蓄積される。この情報を元に、過去の契約情報から融資枠を設定できるようになっており、ドローンの故障や事故で修理代や新規購入費用が必要になった際に融資を受けることができる。
このように、低空経済が発展していくと、単にドローンなどの機体の製造販売だけではなく、サービスの販売代行やメンテナンス、融資、保険などの裾野が広がっていくことになる。賽迪研究院の報告書「中国低空経済発展研究報告(2024)」は低空経済の市場規模が2023年時点で5060億元(約10兆円)に達していると指摘している。その内訳は明示されていないが、こうした関連産業が相当な比重を占めているとみられる。
検査や農薬散布といった活用法は、ドローン普及初期から取り組みが始まっていたものだ。調査会社iimediaが2016年に発表した報告書「2016年中国ドローン業界研究報告書」によると、2025年のドローン産業市場規模として「空撮及びホビー」が40%、「農業用」が27%、「セキュリティ用」が20%、「電力インフラ点検」が6%、「その他」が7%と推計している。
そして、「低空経済元年」を迎えた今年以降は、加えて宅配便やフードデリバリーなど小型荷物の配送、eVTOLによる交通、あるいは無人貨物機による長距離輸送などが加わっていくと期待されている。前述の報告書によると、2026年には倍増の1兆元(約20兆円)産業になるという、きわめて強気の予測を示している。
報道によると、深セン市ではすでに100カ所ものeVTOL離発着場の建設が始まっており、2025年までに600カ所の整備を目指しているという。コストダウンが進めば、1kmあたり6元(約120円)という料金でサービスが提供できるとの発表もあり、にわかには信じがたいが、ひたすら“前のめり”であることは伝わってくる。
実はドローンによるフードデリバリー配送、大型無人貨物機、そしてeVTOLなどの実験は2010年代から企業レベルでは進められてきた。「まもなく商用サービス開始」という観測が伝えられるのも珍しい話ではなかったが、そのたびに立ち消えになってきた。だが、今回の“前のめり”は様相が異なる。では、いよいよ、本当に来たかもしれない「低空経済元年」はいったい、どのような要因がもたらしたものなのだろうか。
ドローンを制御するソフトウェア、バッテリー性能の向上、モーターのコストパフォーマンス向上……といった技術的な突破が「元年」につながったという話だと腹落ちしやすいのだが、これらの技術に近年、飛躍的な成長があったというわけではない。
大きく変化したのは法整備だろう。2024年1月1日施行の「無人操縦航空機飛行管理暫定条例」、「民用無人操縦航空機運航安全管理規則」によって、低空経済に使われる機体の認可、メーカーの責務、運営企業の認可や保険加入などの義務、飛行禁止区域の設定、フライト許可が必要になる場合の要件などが定められ、何をクリアすればサービスが提供できるのか、事故が起きた時にはどうすればいいのかが明確になった。
また、こうした法整備によって、「適飛空域」と呼ばれる、低空経済で活用できる区画の設定が明確化したことは大きい。高度120メートル以下ならば、空港や軍事基地、発電所などのインフラ、地方政府によって特に定められた地域、共産革命の重要な記念地の上空をのぞいては活用できる。つまり、オフィス街や住宅街の上空も「適飛空域」となった。微型、軽型(機体重量4kg以下、離陸重量7kg以下、最高時速10km以下の機体)の機体ならば、許可を得なくても飛行できる。つまり、機体重量4kgで3kgの荷物を積んだ配送ドローンは住宅街の上でも自由に飛べることが法的に認められたことになる。また、人を乗せるような大型のeVTOLについても免許、保険などのクリアすべき条件が確定している。
この法整備がもたらした効果は大きいが、なぜこのタイミングで整備されたのだろうか。専門家が現在の技術力と安全性を加味した上で、ここまでならばやってよしという合意が生まれた……。というのならば理解できるのだが、現実は「熟慮」よりも「勢い」が影響した可能性が高い。
中国共産党は毎年12月、中央経済工作会議を開催する。ここで決定された経済政策が翌春の全人代(全国人民代表大会、日本の国会に相当)で追認されるので、実質的には1年の中国経済を占う重要会議といっていい。
2023年12月の中央経済工作会議における習近平総書記の講話には次の一節がある。
「大々的に新型工業化を推進し、デジタル経済性を発展させ、AI(人工知能)の発展推進を加速させる。バイオ製造、民用宇宙産業、低空経済などいくつかの戦略的新興産業を作り上げ、量子科学や生命科学など未来産業の新たな道を切り開く」
習近平総書記はイノベーションによる経済振興にきわめて強い関心を示している。「新たな質の生産力(新質生産力)」「未来産業」といった政治用語も生みだし、テック傾倒の姿勢を露わにした。その結果、中央経済工作会議を始め、党や国の重要会議の決定で特定産業を名指しして取りあげることが増えている。
低空経済はこれまで省庁レベルの政策には組み込まれてきたが、習近平総書記が主催する最高レベルの政治イベントにおいて、名指しで取りあげられたのはこれが初めてだ。この影響は凄まじい。前述のとおり、年明けには法整備が公布され、その後も中国各地の地方政府が独自の低空経済発展計画を発表、政府系投資ファンドの投資や国有銀行の融資などの動きへとつながっている。
すなわち、中国の低空経済元年、その熱気は政治が生み出した、より踏み込んで言うならば、“習近平総書記が生み出した”と言っても過言ではない。
このような背景を知ると、中国の低空経済ブームに危うさを感じるのは当然ではある。とはいえ、鶴の一声で決まったことが必ず負の結果をもたらすと決まっているわけではない。前述の通り、低空経済で実装が進められるサービスは以前から試験が積み重ねられてきた技術である。主に安全面での懸念がストップをかけてきたわけだが、トップの強い意志によって一気に成功へとつながる可能性も否定できない。
同様の構図にあるのが自動車の自動運転だ。数年前、ある中国自動運転企業の技術幹部に自動運転の性能について話をうかがう機会はあったのだが、すでにレベル4(特定条件下における完全自動運転)を実現していると胸を張っていた。しかし、実際にレベル4自動運転をうたって市販すると、事故が起きた時の責任や社会的な批判は免れられない。なので、あくまで人間の運転手をサポートするレベル2自動運転という触れ込みで販売しているのだ、と。
ところが今年に入って、運転手を乗せない自動運転のロボタクシーが一気に普及した。これもまた技術的な突破という以上に、イノベーション志向の経済成長という波に乗ったチャレンジ、賭けという要素が強い。
「摸著石頭過河」(川底の石をつかみながら川を渡る)とは、かの鄧小平が遺した言葉である。慎重に模索しながら改革を進めることを意味するのだが、現実の中国はというと、成否が見えない大胆なチャレンジに取り組んでいる姿が印象的だ。この大胆さは成功につながるのか、あるいはとんでもない転落を迎えるのか。現時点では誰も予想出来ない。