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【日本人が知らない 、世界のスゴいスタートアップ Vol.14】米国医療業界で成長を続けるスタートアップの“いかがわしさ”と緻密な戦略 

米国医療業界で成長を続けるスタートアップの“いかがわしさ”と緻密な戦略(イメージ図)

米国医療業界で成長を続けるスタートアップの“いかがわしさ”と緻密な戦略(イメージ図)

 連載「日本人が知らない、世界のスゴいスタートアップ」では、海外のベンチャー投資家やジャーナリストの視点で、日本国内からでは気付きにくい、世界の最新スタートアップ事情、テック・トレンド、ユニークな企業を紹介していきます。今回のテーマは、「超速ピボットで伝統的製薬産業をディスラプトするヒムズ」です。(聞き手・執筆:高口康太)

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 新型コロナウイルス(COVID-19)の流行後、ポスト・コロナで社会は変わるという話が盛んにされた。確かに変化した部分もあるが、肩透かしも多い。リモートワークはどんどん縮小しているし、オンライン飲み会などはもはや覚えている人のほうが少ないのではないか。

 この肩透かしで、最大の衝撃を受けたビジネスは医療関係だろう。ワクチン開発で注目を集めたAI創薬分野は2021年をピークに資金調達額が急減した。オンライン診療も厳しい。米国オンライン診療最大手のテラドック・ヘルスの株価はコロナ前の約70ドルから、コロナの流行で一気にジャンプアップ。2021年初頭には290ドル台と4倍以上に跳ね上がった。これからはオンライン診療を組み合わせ、医療リソースを節約する時代が続くなどと語られていたのに、直近の株価は9ドル台とピークから30分の1にまで下がっている。コロナ禍も社会に大きな影響を与えたが、間違った予想と過大な幻想も影響が大きいわけだ。

 先が読めない時代にスタートアップが生き残るには、柔軟に戦略を転換し、新たな状況に合わせた勝ち筋を素早く見つけることが必要だ。例えば、米国の医療D2C(ダイレクト トゥ コンシューマー、ネットでの直接販売)のHims & Hers(ヒムズ アンド ハーズ、以下、ヒムズ)の見事な転身は学ぶべき価値があるという。世界のスタートアップ事情に詳しい台湾の投資家、マット・チェン氏が紹介してくれた。

鄭博仁(マット・チェン、Matt Cheng) ベンチャーキャピタル・心元資本(チェルビック・ベンチャーズ)の創業パートナー。創業初期をサポートするエンジェル投資の専門家として、物流テックのFlexport、後払いサービスのPaidyなど、これまでに15社ものユニコーン企業に投資してきた。元テニスプレーヤーから連続起業家に転身。ジョインしたティエング・インタラクティブ・ホールディングス、91APPは上場し、イグジットを果たしている。

例外規定の“ハック”で

――オンライン診療企業は“コロナ特需”で2021年に株価を上げましたが、その後は悲惨な状況に陥っています。ところがヒムズは今年に入って株価が急騰、最高値を更新しています。

ヒムズ株価推移
ヒムズの株価推移(筆者作成)

マット・チェン(以下、M):それは彼らが華麗なピボット(事業転換)に成功したからです。

まず、同社の歴史を簡単に紹介しましょう。2017年設立のヒムズは医薬品D2C企業です。24時間受け付け可能なオンライン診療と、医薬品配送サービスを事業としていました。

 当初の成功を支えたのは男性用発毛剤とED(勃起不全)治療薬でした。いくつかの主要薬品の特許が切れたため、低価格のジェネリック薬品を目玉商品としてきました。その後は健康食品やサプリメント、メンタルヘルス関連など、カバーする分野を広げていきます。2020年には新型コロナウイルスの流行でオンライン診療の需要が高まるという追い風もあり、2021年にニューヨーク証券取引所(NYSE)にSPAC上場(特別買収目的会社との合併による上場)しています。

――ポスト・コロナの業績回復は何が理由でしょうか?

M:今、世界で注目を集めるのがGLP-1受容体作動薬と呼ばれる肥満症治療の薬です。あまりの需要の大きさから在庫がひっ迫しているほどです。

ヒムズ売上・営業利益推移
ヒムズ売上・営業利益推移(筆者作成)

 ヒムズは今年5月、大手製薬会社の5分の1程度という激安価格で、GLP-1受容体作動薬を発売し、爆発的な売上を上げています。この薬品の特許が切れるのは2032年とまだまだ先なのですが、供給不足を受けて米国食品医薬品局(FDA)は昨年末に例外措置を設けました。供給難の期間だけという条件付きではありますが、調剤薬局が同じ有効成分を使った配合剤を販売することを認めたのです。この例外規定を使って、ヒムズは大手製薬会社よりもはるかに安い肥満症治療薬を販売することができたのです。

 当初は外部に製造を委託していましたが、今年9月には医薬品メーカー・Nivagen PharmaceuticalsのMedisourceRx事業部を買収。自社での製造を可能としました。

――スタートアップらしい“ハック”ですね。儲かるポイントを見つけて速やかに参入する。個人的には最高に面白いストーリーだと思いますが、例外措置が終わったらどうなるのだろう、他の会社も同じことができるのですぐに泥沼の価格競争に陥るのではないかという不安も感じます。

M:そもそもスタートアップには“いかがわしさ”が必要でしょう。大手企業ではできないようなハックを見つけて成功を積み重ねていき、やがて大企業へとのしあがっていくのです。

 そして、こちらのほうが重要なのですが、凡百のスタートアップは優秀なアイデア、いかがわしいものも含めてですが、を見つけたとしても、すぐに他社に模倣され、差別化できなくなってしまいます。ヒムズは創業初期から差別化のための工夫を積み重ねてきました。彼らから学ぶべきはこの点です。

ヒムズがとった「3つの戦略」

――かのウォーレン・バフェットも、事業でもっとも大切なものは競合他社との競争から身を守るためのMoat(堀)だと話しています。独自の技術や特許、あるいは長年信頼されてきたブランドなどは典型ですが、スタートアップが手に入れるには難しい代物です。ヒムズによる差別化のための工夫とは?

M:ヒムズの成功は成長ステージに合わせて、3つの戦略、すなわち「先行者利益」、「ブランド化」、「リバース・ポジショニング」を活用したことにあります。

 創業初期に活用した戦略は先行者利益です。スタートアップ企業のリソースは限られているため、初期段階ではできるだけ早くPMF(プロダクトマーケットフィット、市場に受け入れられる商品を提供すること)を実現する必要があります。「需要はあるのに競合がいない市場」をいち早く見つけることができれば、低コストで顧客を獲得できるのです。

 ヒムズが創業した2017年は、米国でオンライン診療の規制が緩和された年です。一部の病気、薬品については、オンライン診療だけで処方せんの発行が認められました。また、前述したように、いくつかの発毛剤、ED治療薬の特許が切れました。このタイミングを逃さず、いち早く参入したことが成長につながったのです。薄毛やEDはデリケートで、なかなか病院行きにくいので、オンライン診療には特にあっていたということもあります。

――創業時点でタイミングを見る目がずば抜けていた、と。

M:そして、第二の戦略がブランド化です。立ち上げに成功した後、ヒムズはブランド構築に注力しました。ウェブサイトから製品パッケージまで、デザインは暖色系のシンプルでモダンなスタイルに統一。一般的に寒色系が多く、冷たい印象のある医薬品のデザインと差別化しました。

 広告も、EDをしおれたサボテンに例えるなどユーモアを盛り込みました。不謹慎と感じる方もいるでしょうが、EDや薄毛などデリケートな問題ゆえに家族や医師に相談しづらかった問題を、話しやすいテーマへと変えることに成功しました。

――面白いですが、これだけの工夫でブランドを手にできたのは不思議です。

M:大手医薬品メーカーのような長年築き上げてきたブランドと同じものが構築できたわけではありません。ただ、従来の医療業界がとりこぼしていた若年層を中心に、ファンを増やすことに成功しました。大手のブランドを知らない若者たちにとっては、ヒムズこそが人に言いづらい悩みを解決してくれる企業とのイメージが強くすりこまれたわけです。

 そして、続けて着手したのがリバース・ポジショニングです。これはマーケティング戦略の1つで、成熟した製品ジャンルで新たなプレイヤーが勝つための手段です。ある商品について、これまであって当然と想われていた機能やサービスを削除し、代わりに1点か2点だけ需要のある機能を追加する。これにより、すでに序列が決まっていた市場の構造をひっくりかえすチャンスを得ることができます。

 体重管理サービスで考えてみましょう。従来は対面カウンセリング、高額な診察料、複雑な保険手続きといった課題を抱えていました。オンラインカウンセリングとネット直販というヒムズのD2Cモデルは、細やかなコミュニケーションという機能をはぎとるかわりに、安価で簡便という特長を加えたのです。

――これこそ他社がすぐに模倣できるのでは?

M:既存企業の模倣は困難です。確かに追随しなければ、新興企業との戦いに負ける可能性がありますが、同様のビジネスを展開すれば自社の既存ビジネスを傷つける可能性があるからです。

 ヒムズが発売した、安価な減量薬に対し、大手イーライリリーは容量を減らして値段を下げた製品を発売して対抗しました。しかし、ほとんどの企業は対抗手段を打ち出すことに躊躇しています。

 企業が成功できるかどうか。それは機敏にチャンスをつかみ、イノベーションを起こせるかどうかにかかっています。その成功を確実なものに変えるために、先行者利益、ブランド化、リバース・ポジショニングなどの戦略が必要となります。

 ヒムズの事例は、多くのスタートアップ起業家にとってなによりの教科書となるのではないでしょうか。

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 ソフトバンクグループ創業者の孫正義がよく口にする言葉が「いかがわしくあれ」だという。FDAの例外規定をうまく利用したヒムズは、まさに“いかがわしさ”を体現したように見えるが、その一方で成功に至るまでの着実な戦略も持っている。マットさんの指摘には、なるほどと手を打たされた。

 ユニコーン企業(評価額10億ドル以上の未上場企業)を多く排出する米国や中国にはこうした大胆さと繊細さをかねそなえた起業家が多い(それでも失敗も多いが)。堅実さが売りの日本社会には、こうしたアグレッシブな起業家が必要なのだろう。

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ジャーナリスト、千葉大学客員准教授。2008年北京五輪直前の「沸騰中国経済」にあてられ、中国経済にのめりこみ、企業、社会、在日中国人社会を中心に取材、執筆を仕事に。クローズアップ現代」「日曜討論」などテレビ出演多数。主な著書に『幸福な監視国家・中国』(NHK出版、梶谷懐氏との共著)、『プロトタイプシティ 深圳と世界的イノベーション』(KADOKAWA、高須正和氏との共編)で大平正芳記念賞特別賞を受賞。