心肺停止に陥った傷病者に、胸骨圧迫などの心肺蘇生の処置を施すことで生存率が高まることはよく知られている。しかし、実際に目の前で人が倒れたときに、どれほどの人が心肺蘇生を行えるだろうか。
「令和3年版 救急救助の現況(総務省消防庁)」によると、一般の人が心肺停止状態の傷病者に遭遇した数は1年間で約25000人となっている。そのうち応急手当が実施されなかった割合は4割以上に上る。
こうした状況の背景には、たとえ救命処置の手法を学んでいたとしても、実際の現場で救命処置を行う際には抵抗や不安を感じてしまうことが指摘されている。
そこで、実際に心肺停止の傷病者を目の前にしたときに、抵抗感なく対応できるよう、AR(拡張現実)を用いて訓練用マネキンの上に心臓や血管、傷病外患を再現して、救命処置の訓練ができるシステムの開発が始まっている。金沢工業大学情報工学科 山本知仁研究室による「視覚的リアリティを考慮したAR救命講習システム」がそれだ。
同研究は、救命処置の中でも重要度が高い「胸骨圧迫」と「傷病者の外観」について学べるAR救命講習システムの構築を目指すもので、心臓や血液が動いている様子や、顔面蒼白、出血などの様子もCGで再現し、訓練用マネキンに提示することで、高い臨場感の中で救命処置を学べるという。
金沢工業大学情報工学科教授の山本知仁博士(工学)と、同大学大学院工学研究科 情報工学専攻博士前期課程2年の蓮見大氏、広島国際大学 保健医療学部 救急救命学科准教授の西大樹氏に、「視覚的リアリティを考慮したAR救命講習システム」の研究内容や社会実装に向けた動きについて聞いた。
AR技術を活用しリアリティを向上
「視覚的リアリティを考慮したAR救命講習システム」では、現時点で「胸骨圧迫」と「傷病者の外観」について学べる。
「胸骨圧迫については、心臓が一分間停止すると、救命率が7〜10%低下することが知られており、救急隊が到着するまでに胸骨圧迫を施すことが、傷病者の命を救うためには欠かせないと考え、実装を決めました」(蓮見氏)
一般的な訓練用マネキンには、心臓の位置が示されていない。そこでこのシステムでは、心臓の位置がわかるマーカを用意。加えて、iOS端末のディスプレイ上では、訓練用マネキンの画像の上に心臓と血管の3Dモデルが表示される(冒頭写真を参照)。さらに胸骨圧迫を行うことで、脳に血液が送られる様子も3DCGで表示されるため、利用者は、自分の処置が傷病者の体にどういった影響を与えるのかを直感的に理解しながら訓練できるという。
「加えてこの訓練システムでは、心音などのリズムに合わせた音も出せます。これにより利用者は、視覚と聴覚の両面から、胸骨圧迫を掴めるようになっています」(蓮見氏)
さらに同システムでは、iOS端末に搭載された距離センサー(LiDAR)を使って、胸骨の圧迫回数、圧迫解除数、圧迫速度・深度も表示可能となっており、「利用者は自分が行った胸骨圧迫がどれくらいのクオリティであったかを確認(評価)しながら訓練できる」(蓮見氏)という。
もうひとつの「傷病者の外観」では、訓練用マネキンに3DCGやアニメーションを重ね、「顔面紅潮・蒼白」「死戦期呼吸」「嘔吐痕・吐血痕」「出血」の様子が再現される。
「一般的な訓練では、訓練者が動画や資料を見るだけにとどまることが多いです。しかし私たちは、ARを実装し、よりリアルで動的な内容にした方が理解しやすいと考え、こうしたものを開発しました」(蓮見氏)
「傷病者の外観」は現時点では3DCGやアニメーションを見るだけだが、たとえば、熱中症で顔面紅潮している傷病者に対して、首や脇の下を冷やすことで、顔色が良くなるアニメーションを組み込むなど、「対処法と合わせた形で学べる」よう改良を進めているとのことだ。
発端は救命講習中に感じた違和感
「視覚的リアリティを考慮したAR救命講習システム」が開発された経緯について、「その発端は救命講習で感じた課題にある」と西氏は話す。
「昨年まで私は、石川県・白山野々市広域消防本部で救急救命士として活動していました。市民の方に心肺蘇生法を指導する講習を消防署が中心となり実施していたのですが、会議室でマネキンを使って蘇生法を指導したところで、やはり少しリアリティに欠けるなと。果たして本当に人が倒れていたときに、受講者が心肺蘇生法を実践できるか、疑問に思ったことが発端です。それで、つながりのあった山本先生に相談し、研究を進めていただいたというのが主な流れです」(西氏)
金沢工業大学情報工学科 山本知仁研究室ではVRやARに関連する研究を行っており、西氏は、国立大学法人 北陸先端科学技術大学院大学(JAIST)と共同でVRを活用した訓練システムを開発している。
これによって、現実に近い体験を講習者に提供できるが、30人から50人規模の講習において、すべての受講者にVRシステムを提供するのはコスト的に無理があるうえ、一人ひとりが体験するのに時間がかかり過ぎるという課題が発生した。そこでAR技術とiOS端末、訓練用マネキンを用いて、簡単かつリアリティのある救命講習システムを提供しようと開発したのが、今回の「視覚的リアリティを考慮したAR救命講習システム」だという。
2026年を目処に社会実装へ
現在、同システムは「開発後の検証フェイズに入っている」と山本氏はいう。
「まずは西さんの大学の学生さん、そして私たちの研究室の学生に参加してもらい、システムに問題点がないかなど検証していきます。その後、西さんが関係を持つ消防署の方で、一年間(2025年度)実証実験のような形で利用していただければと。その間、フィードバックがあれば、システム側をどんどん改善していき、2026年を目処に、石川県から徐々に全国へと社会実装を進めていければと構想しています」(山本氏)
社会実装に向けての課題点としては「システムの安定性」が挙げられるという。
「一般のユーザーが使うとなると、システムの安定性がかなりのレベルで求められます。途中でシステムが止まると、講習が滞ってしまいますので。そういう意味でのシステムの作り込みをさらに進めていく必要があると感じています」(山本氏)
ただ、現時点のシステムでも、消防署の救急救命士からは「これは使える」との評価を得られており、期待は高まっているとのことだ。
冒頭でお伝えしたように、心肺停止状態の傷病者に遭遇した際に、約4割は救命処置が行えていない現状がある。そうした状況に対して山本氏は、「救われる命が増えることが我々のアウトカムであり、救われる命が増えることを期待し、これからも研究を続けていきたい」と意気込みを語った。
山本氏らの研究が、1日も早く実を結ぶことを期待したい。