連載「日本人が知らない、世界のスゴいスタートアップ」では、海外のベンチャー投資家やジャーナリストの視点で、日本国内からでは気付きにくい、世界の最新スタートアップ事情、テック・トレンド、ユニークな企業を紹介していきます。今回のテーマは、「予防医療の新時代」です。(聞き手・執筆:高口康太)
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体内に埋め込まれたナノマシン『WatchMe』が健康状態を常時監視し、異常があれば各家庭の薬品製造システム『メディケア』が即座に必要な薬を生成して治療する。さらには酒など健康を害する食品を摂取しようとすると、AI(人工知能)が警告してくる……。
これは名作SF小説『ハーモニー』が描いた、健康至上主義の管理社会である。健康という大義名分のもと個人の選択が奪われるディストピアにぞっとする人もいるだろう。一方で、「こんな風に管理してもらえれば、もうちょっと健康な人生が送れたのに」と管理社会に魅力を感じる人もいるのではないか。まあ、それは私のことなのだが。幸か不幸か、SF小説に登場するような高度な医療管理社会が実現するまでにはまだまだ時間がかかりそうだが、“そちら”に向かって進んでいることは確かだろう。
ナノマシンではないが、健康トラッカーの進化は著しい。スマートウォッチやスマートバンドなどの腕時計型デバイスに加え、指輪型デバイスの選択肢も増えてきた。取得できるデータは歩数、心拍数、睡眠時間、体表面温度、血中酸素濃度の測定が一般的だが、さらにモニタリングの範囲を増やすべく研究開発が続いている。
大きな突破だと感じたのが、今年2月に日本市場で発売された「HUAWEI WATCH D2 ウェアラブル血圧計」(以下、WATCH D2)だ。貸し出しを受けて試用したが、一日中装着していても気にならない薄型カフの出来は絶品だ。
従来の血圧測定機能付きスマートウォッチは信頼性の低い光学式を使っているものか、信頼性は高くともカフ(空気を入れて膨らむ帯)が分厚くてとても普段使いできないようなものかのどちらかだった。
ファーウェイはこの「WATCH D2」発表に合わせ、アプリ「HELPO」との提携も発表している。HELPOはソフトバンク傘下の日本企業ヘルスケアテクノロジーズが運営し、医師や看護師へのチャット健康相談、オンライン診療仲介プラットフォームなどを提供している。
「スマートウォッチがモニタリングし、オンライン診療で薬品が郵送される」、SF小説の「ナノマシンがモニタリングし、自宅の医療機器で薬品製造」への第一歩とも言える、モニタリングと治療が一体化した動きである。
新たなテクノロジーによって健康モニタリングや予防医療はどのように進化するのだろうか。最新の技術トレンドに詳しい、台湾の投資家マット・チェン氏に話を聞いた。
鄭博仁(マット・チェン、Matt Cheng) ベンチャーキャピタル・心元資本(チェルビック・ベンチャーズ)の創業パートナー。創業初期をサポートするエンジェル投資の専門家として、物流テックのFlexport、後払いサービスのPaidyなど、これまでに15社ものユニコーン企業に投資してきた。元テニスプレーヤーから連続起業家に転身。ジョインしたティエング・インタラクティブ・ホールディングス、91APPは上場し、イグジットを果たしている。
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――新技術で予防医療が変わるのではないでしょうか。
マット・チェン(以下、M):そのとおり。私もヘルスケア産業には注目しています。一つ、ユニークな事例をご紹介しましょう。米ニューヨーク市マンハッタンに2024年5月にオープンしたContinuum Club(コンティニュアム・クラブ)です。
足を踏み入れると、ウェイトトレーニングや有酸素運動の機器が並んでいるので、一見するとたんなる高級スポーツジムのように見えますが、それだけではありません。骨密度スキャナー、VO2 Max(最大酸素摂取量)テスト機能付きトレッドミルなど医療レベルの精密機器一式が揃っています。
フロートタンク(高濃度の塩を溶かした温水タンク。その中に浮かんでいると外部の感覚刺激から遮断されリラクゼーション効果を得られるとされる)、ヒマラヤ塩サウナ、コールドプランジ(冷水浴。血行促進や運動後の回復を早める効果があるとされる)、点滴ステーション(ビタミンやミネラルなどの栄養素の点滴)、高圧酸素療法機器(大気圧より高い気圧をかけ、高濃度の酸素を吸入する)といった器具もあります。
入会時には血液検査や睡眠分析が行われます。さらに入会後にはウェアラブル端末を通じて心拍数や歩数、血圧などのデータが常に収集されます。そうしたデータをもとに健康を維持するための最適のプランが提供されるのです。スポーツジムというよりも、健康ラボというべきでしょうか。スタッフもパーソナルトレーナーではなく、ヒューマン・パフォーマンス・スペシャリストという肩書きを持っています。
――利用料もお高いのでしょうね。
M:月会費1万ドルとかなりの値段ですが、入会希望者が殺到し、ウェイティングリストは増え続けているとのこと。健康に対するニーズの高さを示しています。
中産層もできる予防医療
M:コンティニュアム・クラブを見ていると、予防医療は富裕層だけのものと思われるかもしれませんが、そうではありません。
以前、ご紹介したHealth2Syncという台湾のスタートアップがあります。彼らのコアサービスはアプリを使ってインターネット接続機能を持つ血糖測定器、インスリン注射器、血圧計、体重計と連携し、自動的にデータを収集、記録することで、主に慢性疾患患者が顧客です。
一方で、健常者向けにも「14日間血糖探索計画」というプロダクトをリリースしています。CGM(Continuous Glucose Monitoring=持続グルコースモニタリング)機器を使って、データから自らの体を見直すきっかけを与えるのです。「どんな食事をとったら、血糖値がどう変動したのか」「食後に15分だけ散歩するだけでも血糖値が安定する」といった事柄が具体的なデータとして把握できます。また、Health2Syncからも取得したデータに基づく生活改善アドバイスが送られます。
アプリと医療というと別物に思われるかもしれませんが、近年ではDTx(デジタルセラピューティクス)が認められるようになりました。DTxとは「疾患等を治療、管理、予防するため、証拠に基づいた治療介入を提供するデジタル製品」の意味で、日本でも2020年にニコチン依存症治療アプリとチェッカーデバイスが認可されるなど、普及が始まっています。
――この検査は4990新台湾ドル(約2万2500円)とのこと。安くはないですが、富裕層ではなくても手が届く金額ではあります。そういえば、遺伝子検査や腸内細菌検査も最近だと数万円ぐらいでできるようになりましたし、予防医療につながる検査の価格も下がってきているのですね。
3つの力が予防医療を発展させる
M:医療倫理を定めた「現代版ヒポクラテスの誓い」という宣誓文があります。この宣誓文は何度か改定されていますが、1964年に「I will prevent disease whenever I can, for prevention is preferable to cure」(できうるかぎり病気を予防する、予防は治療に勝るからだ)との一文が加えられました。半世紀以上前から予防医療の重要性は認識されてきたのです。
ただ、これまではなかなか普及しませんでしたが、時代は変わりました。今後、予防医療は大きく発展するでしょう。ヘルスケア・コンサルティング企業「iHealthcareAnalyst」は、予防医療市場が2031年に4150億ドル規模に成長すると予測しています。このトレンドを推進しているのは、主に3つの力です。
第一に、経済的な圧力です。現在の医療システムは巨大なコスト圧力に直面しています。CDCの統計によると、全米の死亡例の7割が慢性疾患によるもので、人口の約半数が心臓病、がん、糖尿病など、少なくとも一つの慢性疾患と診断されています。慢性疾患はアメリカの年間4.5兆ドルの医療費の90%を占めています。
第二に、消費者の意識の変化です。現代人は病気になる前に対応する、能動的な健康管理を求めています。これが定期健康診断、予防スクリーニング、遺伝子検査などの予防医療サービスの需要が増加している理由です。パーソナライズ医療のコンセプトを広まりつつあり、個々人の健康状態、生活習慣、リスク要因に基づく、オーダーメイドの予防的健康アドバイスのニーズが高まっています。
第三に、技術のブレークスルーです。潜在的リスクを早期に発見できるAI診断システム、24時間365日の健康モニタリングを可能にするウェアラブル健康デバイス、個人の遺伝子や生活様式に基づいて正確な予防アドバイスを提供するパーソナライズ医療技術などが含まれます。
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最近のウェアラブル端末はストレスを測定できるものもある。原稿が進んでいない時にチェックすると、確かにストレス値が高い。そうした時には思い切って気分転換したほうが効率が上がることも多い。
自分の心や体を知るというと、昔は運動やヨガ、ストレッチを通じて体と対話していくイメージだったが、今やウェアラブル端末によって統計的に測れるようになってきた。味気ないような気もするが、やってみると、客観的、計量的な自己理解はなかなか面白い。
SFが描いたような究極の管理社会はまだ遠い未来の話かもしれない。しかし、Continuum Clubのような最先端の取り組みから、Health2Syncや手元のスマートウォッチのように身近なデバイスまで、テクノロジーは着実に私たちの健康意識と行動を変え始めている。客観的なデータを通じて自分自身を知ることは、予防医療がよりパーソナルになる時代の、重要な第一歩と言えるのかもしれない。