連載「日本人が知らない、世界のスゴいスタートアップ」では、海外のベンチャー投資家やジャーナリストの視点で、日本国内からでは気付きにくい、世界の最新スタートアップ事情、テック・トレンド、ユニークな企業を紹介していきます。
今回のテーマは、「バイオ製薬を加速させるAIエージェント」です。バイオ製薬といえば“ハイテク業界”なはずなのに、実際は書類作成や法律対応などの面倒な仕事が山積みです。それを、AIエージェントが変えようとしています。(聞き手・執筆:高口康太)
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「AIエージェント」が流行語だ。ユーチューブを見ていると、書類の自動入力やスケジュール調整などつい手が伸びそうになる便利な広告であふれている。個人でも簡単に自分専用のエージェントを作れるサービスも次々と登場し、個人事業主の私もAIエージェントで自分の仕事が楽にならないかなと妄想する日々だ。
ChatGPTのようなチャット型AIも便利だが、「必要なデータを揃えて、作業手順を指示して」という作業は意外と手間がかかるもの。その指示出しさえも自動化し、自律的に動いてくれたら……。まさにこの「夢」を実現するべく、AIエージェントの開発は進んでいる。
うまくいっている事例もあれば、さっぱりダメなものもあるようだが、世界のテクノロジートレンドに精通する台湾の投資家マット・チェン氏によれば、バイオ製薬業界での活用はきわめて有望だという。話を聞いてみると、AIエージェントが“効く”業界の条件がわかってきた。
鄭博仁(マット・チェン、Matt Cheng) ベンチャーキャピタル・心元資本(チェルビック・ベンチャーズ)の創業パートナー。創業初期をサポートするエンジェル投資の専門家として、物流テックのFlexport、後払いサービスのPaidyなど、これまでに15社ものユニコーン企業に投資してきた。元テニスプレーヤーから連続起業家に転身。ジョインしたティエング・インタラクティブ・ホールディングス、91APPは上場し、イグジットを果たしている。
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最先端にして石器時代
――バイオ業界といえば、精密機器や画期的な新薬など、まさにテクノロジーの最前線というイメージです。
マット・チェン(以下、M): 私もそう思っていました。精密設備、バイオ製薬、再生医療はテクノロジーの主戦場として、国家戦略や投資業界が注目する分野ですから。しかし、実際に現場で働く人々と話すと、異なる姿が見えてきました。
もし製薬工場の第一線に足を運ぶ機会があれば、驚くはずです。そこにあるのはSF映画のような自動化プロセスではありません。実際には、膨大な人手、体力、時間によって支えられた、煩雑な作業の積み重ねなのです。特に薬の量産プロセスの課題は大きい。
バイオ・テクノロジー自体は時代の最先端ですが、業務フローは依然として“石器時代”に留まっている。この「極端な先進性」と現場に残る昔ながらの「保守性」のギャップが、発展のボトルネックになっていることがよくわかります。
ボトルネックの解消は、大きなビジネスチャンスとなります。では、どうやって解決するのか。現状の設備をレベルアップさせていくだけでは解決にならないでしょう。必要なのはバイオ業界の知識を深く理解し、断片化されたプロセスを自動的につなぎあわせ、開発の成否を決める局面で人間の決断をアシストするワークプラットフォームです。
これらはAIエージェントが解決すべき、典型的な課題です。
CDMOの「保守性」
――まず、バイオ業界に「保守性」について、具体的に教えていただけたら。
M:バイオに限らず、製薬エコシステムは高度に分業化された、長大なサプライチェーンから成り立っています。
まず、大学の研究室や製薬スタートアップが薬として有効な成分のシードを見つけます。そのシードは本当に効果があるのか、臨床試験(治験)などを通じてデータを取り、客観的に検証する業務を支えるのがCRO(Contract Research Organization、開発業務受託機関)です。ここで有望だと認められた成分については、武田薬品工業や第一三共、ファイザー、ノバルティスなど一般的に知られている製薬メーカーによって、臨床戦略、法規制への対応、製品の位置づけなどを進めていきます。
――リレーみたいですね。長い。
M:まだ、続きます(笑)。その薬品の製造、量産プロセスの確立を担うCDMO(Contract Development and Manufacturing Organization、医薬品開発製造受託機関)も介在します。研究室レベルでの少量製造と、商用レベルでの量産技術は別物ですから。
日本の富士フイルム・ダイオシンス・バイオテクノロジーズや中国のウーシー・アップテック、韓国のサムスン・バイオロジクス、スイスのロンザなどが有名です 。
――CDMOの量産プロセス残る「保守性」が課題とのことでしたが、CDMOに保守的なところがある、と。
M: 彼らの仕事は上市前のアンカーとして重要であり、それだけに面倒な作業で、慎重さが求められます。ゆえに保守的な性格が求められる業界ではあります。しかし、もともと大変な仕事であることに加え、それが依然として昔ながらの紙と人手に依存していることで、さらに苦しくなっているのです。なぜそうなってしまったのでしょうか。3つの大きな課題、ペインポイントがあります。
第一に、「情報の断片化」。新薬の開発から試験製造、量産にいたるまで多くの工程を踏むことはお伝えしたとおりです。そのため関連するデータや実験記録、報告書は各所に分散しています。情報を口頭で伝えていることも多く、プロジェクトが複雑化、大型化すると情報が混乱することになります。
第二に、「経験への依存」。CDMOの仕事が職人的なノウハウに多く依存しているという課題です。製造工程の異常や品質のばらつきを解決するためのパラメータ調整は体系的な分析ではなく、ベテラン研究者の経験と判断に依存しています。
そして第三に、「スケールアップの難しさ」です。料理でも、一人分のレシピの分量を100倍にしたら100人分の料理ができるとはかぎりません。実験室での製造法を量産できる製造法に変えるための転換は、試行錯誤によって正解を見つけ出すしかありません。
属人的なコミュニケーションとノウハウがモノをいう世界なのですが、薬品の開発ペースを短縮し品質を安定させるためには改革が必要です。
「特許の崖」とLLMの発展=CDMOの変革
――課題はよく理解できましたが、それでもこれまではうまく稼働してきた仕組みです。それを変革するのは難しいような気がしますが。
M:確かに昨日今日の課題ではありません。なぜ、「今」、変革しなければならないのか。それは業界が「限界」を迎えているからです。「特許の崖」(パテント・クリフ)に製薬業界は怯えています。キイトルーダやオプジーボなどのがん免疫療法薬などもそうですが、医薬品メーカーの屋台骨と言えるブロックバスター(年間売上10億ドル以上の売上高のある薬品)の特許が失効し、より安価なバイオシミラー(後続品)が製造されるようになります。こうした減収額は2030年までに2,000億ドル規模に達するとも推計されています。
一刻も早く新たなブロックバスターを作らねばならないのですが、新薬開発の主役は、かつての単純な低分子化合物から、複雑なバイオ高分子や抗体、さらには細胞治療へとシフトしています。それに伴い、製造プロセスの複雑さは指数関数的に増大しているため、開発が長期化しています。
――従来の手法での新薬開発が難しくなっている、そのタイミングでAI技術は成長している。だからこそ変革のチャンスは今なのだ、と。
M: その通りです。LLM(大規模言語モデル)の登場により、AIはタスクの文脈を理解し、異なるシステムを連携させる能力を持ち始めました。AIエージェントによって初めて、研究、臨床、製造を横断し、バラバラの作業を一つの連続したシステムへと統合する道が見えてきました。
まさにこの課題に取り組んでいるのが、製薬CDMO向けAIエージェントプラットフォームを展開する、台湾のスタートアップ、TherapiAIです 。TherapiAIがサポートする業務フローは以下の3つです。
- 研究段階:研究支援。一般的なLLMによく見られる「幻覚(ハルシネーション)」を避け、データに基づいた回答のみを提示
- 探索段階:最適なパラメータの範囲や異常の原因を提示し、実験時間を短縮
- 応用段階:数千万個の細胞株から最適な1つを選び出すという、とてつもない労力が必要となるセルライン開発のサポート。GMP報告書(医薬品製造管理基準)やFDA(米食品医薬品局)法規の自動照会というもっとも煩雑な作業の支援
AI駆動のテックカンパニーへ
――AIエージェントは、実務で効果を出せていない会社が多いですよね。
M:TherapiAIはすでに一定の成果をあげています。バイオ薬品の一種、ADC(抗体薬物複合体)は、薬剤をがん細胞へ高精度に送り届け、正常細胞へのダメージを抑えられることから、がん治療における重要なブレークスルーとして、「魔法の弾丸」とまで呼ばれている新型医薬品です。その一方で、薬剤設計や製造プロセスは極めて複雑で、複雑な検討が必要になります。
TherapiAIが開発したADC AIエージェントは、抗体(Antibody)、リンカー(Linker)、ペイロード(Payload)といった中核要素について、システムや文献を横断してデータを自動的に統合・整理します。さらに、薬効や毒性に影響を与える設計上の重要ポイントを抽出し、将来的に調整が必要なパラメータも自動で提示します。これにより、従来は 2〜3 年を要していた前期探索期間を大幅に短縮し、より早期に開発フェーズへ移行することを可能にしつつあります。
また、品質規制が極めて厳しいGMP(製造管理および品質管理の基準)の分野でも、AIが国際法規との不整合やリスクを指摘することによって、書類の作成や修正といった面倒で時間がかかる作業を大幅に短縮しています。
AIエージェントの発展によって、CDMOは大きく変革するでしょう。労働集約的な工場から、AI駆動のテックカンパニーとなるのです。
日本医薬品メーカーもこの波に乗り遅れるべきではありません。長年蓄積してきた品質や知識の優位性を、いかにAI駆動のシステム能力へと転換できるか。それが次の十年の成長を左右します。
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チームメンバーが顔を合わせて情報伝達する属人的コミュニケーション。複数の企業や組織が連携しているがゆえのデータの断片化。ベテランのノウハウ頼みの試行錯誤。法律の理解やそれにあわせた書類申請などの大量のペーパーワーク。こうした特性があるがゆえに、製薬業界、特にCDMOにはAIエージェントが“効く”。マットさんの話はロジカルだ。
振り返ってみると、似たような条件があてはまる業界は多くありそうだ。私のようなフリーランスの物書きも、法律はともかくその他の条件にはあてはまりそうだ。目覚ましく進歩する一方で、どう使いこなせば効果的なのか、なかなか正解が見つからないのがAIだが、「この手の課題にはこの手法が効く」という使いどころを嗅ぎつける職人技が必要のようだ。
