当媒体での連載「日本人が知らない、世界のスゴいスタートアップ」でもおなじみの鄭博仁(マット・チェン、Matt Cheng)さんのベンチャーキャピタル「チェルビック・ベンチャーズ(心元資本)」が、このほど第6号ファンド(Fund VI)の募集完了を発表した。同社は2015年の設立から10年余り、15社ものユニコーン企業を見いだしてきた台湾発の有力ベンチャーキャピタル(VC)だ。
第6号ファンドの規模は6888万ドル。繁栄と幸運を表す数字と「8」が3つ並ぶところは台湾発のファンドならでは。これで同社が運用する6本のファンドの運用資産総額(AUM)は5億ドルを突破した。
連載では毎回マットさんが注目する様々なジャンルのスタートアップを紹介してきたが、今回は投資家としてのマットさん自身の手の内を少し明かしてもらった。
まず「人を見る」そして……。
投資トレンドは、山の天候のように激しく移り変わる。その中でVCが継続して成功することは難しい。投資の世界で生き続ける道、新たなトレンドをつかむ技術とはなんなのか。
「この10年でチェルビック・ベンチャーズが重視する事業分野は何度も変わりました。だが、変わらない軸があります。その一つがステイ・アーリー(創業初期段階での投資)です」とマットさんは話す。
ファンドの資産規模が拡大し、投資余力ができても、アーリーステージ投資というスタイルに変化はない。いや、近年、さらにその傾向が強まっているという。
「近年、スタートアップの初期調達額が拡大しています。特にAIスタートアップの調達額は大きい。2010年代前半はシードラウンド(創業初期)の投資は100万ドルから150万ドルが平均でしたが、米国のAIスタートアップは現在、500万から3000万ドルの調達が相場です。1件あたりの投資を抑えるために、シードよりも前のエンジェルラウンド(創業直後)の投資に注力しています」
エンジェルラウンドでの投資となると、どんなプロダクトを作るのか模索中の段階で投資することになる。それだけに見極めが難しい。
「二つのポイントがあります。第一に創業者の人となりを見ること。スタートアップの創業者とは新しいテクノロジーやビジネスモデルを活用し、自らの手で“見たい未来”を築く人々だと考えています。そのためにはどんな技術やスキルを持っているか以上に、現在の社会にどのような変化、すなわちパラダイムシフトが起きているのかを見通し、何をどう再定義しようとしているのか、そのアイデアが重要です。だからこそ投資判断にあたっては、創業者がどのように考えているかを理解することに時間を割きます。そして、ひとたび投資すれば、不確実さの中で探索し、不断に方向修正を続ける創業者と伴走することを心がけています」
現時点における最大の技術トレンドは、「AI」であることに疑いはない。AIスタートアップを標榜する企業は多いが、マットさんはそれだけでは投資はしないという。
ソフトウェアは自律的に業務を遂行するようになるだろうし、機械も現実世界を理解する能力を高めるだろう。そうなると、従来は数百人規模の組織を必要とした事業も、将来は十数人で構築できる可能性がある。
こうした技術変革が、社会をどのように変えると見ており、その中で市場を再定義することができる起業家“だけ”を探しているという。
その創業者が考える「市場の再定義」が本当に正しいのかどうか。投資家がそれを見極めることは容易ではない。プロダクトが形になっていないエンジェルラウンドならばなおさらだ。そこでマットさんが重視しているのが第二のポイント「Conviction before consensus」(信念先行)という言葉だ。
誰もが認める、正しい「市場の再定義」が見つかってから投資するのではない。技術変革が社会をどう変えていくのか。突き詰めた思考の末に得た信念を貫くことが重要なのだ、と。
創業者の「人となりを見る」こと、そして「信念先行」。二つの軸からマットさんは投資先を選定している。
AIの有力企業へ次々と投資
「2024年以降、AIを事業の中核に据えるAIネイティブ企業への投資を進めています。その対象はAIインフラ、開発者向けツール、企業向けソフトウェア、医療、フィジカルAI(Physical AI)、ロボティクスなど多岐にわたります。AIによって初めて可能になる新たな事業機会を追求する企業群です」
この戦略に沿って、チェルビック・ベンチャーズはAIを活用した特許テクノロジープラットフォームPatlytics、AIによる医療業務や創薬プロセスの変革を目指すMax AI、Generation Lab、therapiAIなどに投資を続けている。
数多くの投資企業の中でも注目株の一つがEntire。元GitHub CEOのトーマス・ドームケが今年2月に発表した開発者向けプラットフォームだ。AIがどんな指示を受け、何を参照し、どのような処理を経てコードを書いたのかまで記録し、人間とAIが共同で開発できる環境を整える。いわば「AI時代のGitHub」を狙う企業である。
シードラウンドとしては異例の6000万ドルを調達し、評価額3億ドルをつけている。開発者向けツール分野としては過去最大級のシードラウンドのひとつだ。
また、創業から約2年のSudo AIは早くも企業評価額が20億ドル近くに達している。同社のロボットシステム「sudo R1」は、仮想環境でのシミュレーションによって学習し、現実世界で収集した操作データに依存せずとも、学習時に見たことのない物体を安定して扱えるようになるという。
ひとりだからリスクが取れる
生成AIが世に知られるようになってから、わずか数年。AIの周辺ビジネスはこれまでとは比較にならないくらい早いスピードで拡大し、変化を続けている。その奔流の中で、見極めるべきものを見て判断を下し、投資を決断するのは容易ではない。どのようにすれば、ごく短い時間で投資にまで至ることができるのだろうか。
「今、一番の助けとなっているのが、この10年で築いたコミュニティです。過去に投資した起業家とのつながりを保ち続けていますが、彼らが新たな有望起業家を紹介してくれます。『人となりを見ることが重要』と話しましたが、すべての起業家に会えるわけではありません。コミュニティの助けがあってこそです」
「もうひとつ重要なのは、ソロGP(投資判断を行うゼネラルパートナーが1人だけというファンド形態)の組織形態です。今となっては、ソロGPは珍しくなくなりましたが、チェルビック・ベンチャーズは世界でもいち早くソロGPを採用したVCのひとつです。創業当時はソロGPに継続性があるのかは立証されていなかったし、そもそも台湾発のVCがシリコンバレーに食い込めるのか誰もわかりませんでした。ですが、投資委員会の議論や市場のシグナルを待つ必要なく、可能性を確信できるスタートアップを見つけたら果断に投資できることが強みになりました」
誰もが真似できる手法には思えないし、リスクも高いだろう。だが、チェルビック・ベンチャーズはこの手法で10年を生き抜き、200社を超える投資先から医療スタートアップのHims & Hers(ニューヨーク証券取引所上場)、物流大手のFlexport、瞑想アプリのCalm、台湾EC支援企業91APP(台湾の店頭市場・TPEx上場)、日本の後払い決済Paidy(米PayPalが買収)、人工衛星のAstranisなど、多くのユニコーン企業を見いだしてきた。
そして、チェルビック・ベンチャーズは次の10年を歩み始めた。
