中国・深センに本社を置くSpinQ Technologyは、常温で動作する量子コンピューターを量産、販売している世界でも類を見ない企業である。日本でも2Qbit(量子ビット)のものが118万円で販売され、量子コンピューターの実機を体験したい研究者や量子コンピューター関連企業を顧客に、すでに数ユニットが出荷されている。また、SpinQは常温動作・低性能の量子コンピューターだけでなく、超電導方式でQbit数の多い量子コンピューターも、チップから自社で開発している。
筆者が担当している早稲田ビジネススクールの授業「深センの産業集積とハードウェアのマスイノベーション」で、本年2月にSpinQ のCo-Founder、Dr.Fengに量子コンピュータービジネスと自社について解説してもらった。そこにはSpinQ特有の戦略に加えて、深センならではといえる、不確定な未来に勝機を見出して飛び込む、ファースト・ペンギン的な考え方があった。
「We are outstanding company(我々は比類のない企業だ)」という言葉から始まったDr.Fengのプレゼンは、まず古典的コンピューターの性能向上を支える「ムーアの法則」が限界にきていること、それに対して量子コンピューターは、急速な発展期を迎えており、これによって今後さまざまな課題が解決していくだろうという可能性に満ちているという説明から始まった。
量子コンピューター開発は、複雑かつ地道な分野で、開発に必要な機材も特殊なため、プレイヤーは少ない。また、関連する企業も、素材の改良や量子チップの製造方法など、一部分に特化している企業が多い。そんな中、SpinQはあらゆる分野で開発を行うことにこだわっている。
現在の量子コンピューターには「1.量子ビットが少なすぎる」「2.量子ビットによる計算のエラーが多い上に、エラー訂正ができない」「3.計算できる時間が短すぎ、複雑な計算が行えない」という3つの問題がある。2019年にグーグルが「量子超越性(仮に量子コンピューターができたとしたら、その量子コンピューターは、普通のコンピューターでは複雑すぎて終わらないある種の問題を解くことができる)」を実証したものの、その実用化(ビジネスや科学的な計算をエラーなく実行できる商用量子コンピューターの開発)は2029年頃だとしている。
SpinQもグーグル同様、2030年以降を「誤り訂正ができることで、量子コンピューターが社会の重要な役目を果たす時代」としているが、ビジネスとしては、すでに量子コンピューターの時代は始まっていると見ている。
2020年以後、量子超越性が実証されたことなどで、量子コンピューターへの社会の関心は高まり、投資ブームが起きている。また、従来に比べるとエラーが少ない量子コンピューターも登場してきた。用途が限られるため、参入できる分野もまた限られるが、現在の量子コンピューターでも5億ドル程度の市場規模はあると、Dr.Fengは述べた。実際にSpinQの常温動作量子コンピューターは、教育用・体験用として販売され、利益を上げている。これも市場化には違いなく、SpinQはこの分野でカリキュラムの開発など、社内リソースを投入して事業を拡大している。
2025年頃には、発生したエラーを検知できる量子コンピューターが登場し、産業分野を問わず量子コンピューターが使われるようになると見ており、この時点での市場規模が50億ドル。そして2030年頃にはエラーを制御できる量子コンピューターが登場することで、計算能力が必要な場所で、通常のコンピューターと量子コンピューターを併用するのがあたりまえとなる。その時の市場規模は1兆ドルに達するというのがDr.Fengの見込みだ。
こうした市場予測の話は決して怪しげな夢物語ではない。世界的に量子コンピューターに注目が集まっていることは間違いないし、技術トレンドや課題についてもきちんと語られている。さらにその利用についても「量子コンピューターは普通のコンピューターを置き換えるものではなく、自動車と飛行機のように併用されるべきものだ」と、むしろよくある「量子コンピューター万能」の誤解を解いている部分もある。実際には細かい齟齬もあるかもしれないが「地図よりコンパス」(伊藤穰一氏が提言したAI(After Internet)の時代に求められる9つの基本原則「The Principles of AI」のひとつ「Compass over maps」=複雑かつスピードの速い世界では、すぐに書き換わる地図より、優れたコンパスが大切)というべきだろう。
常識的な科学的予想をビジネスの視点から見つめることで、「教育・体験目的で量子コンピューターを開発し販売する」「各分野の研究者を幅広く集め、その融合によって新製品やビジネスを生み出す」という同社の特色やこれまでの実績が積み上げられてきた。その実績を魅力的に語ったインパクトに満ちた、スタートアップらしいトークと言える。「ものは言いよう」という側面もあるが、社会のどこから見ても成功と判断できるようにならないと踏み出さないようでは、スタートアップとは言えない。
技術的な課題やイノベーションについて、現時点でSpinQが解決したものは多くはなく、講演内容の技術的トレンドの多くはグーグルやIBMなどが実現したものだ。しかし、すでにSpinQは実際に量子コンピューターを開発・販売して売上を挙げている企業であり、顧客をつかんでいる珍しい企業であることは事実で、ファースト・ペンギンと言える。
また、超電導環境を必要とする高性能の量子コンピューター含めて、全方位で技術開発・ビジネス開発を行っていることも事実だ。
なぜ深センで起業したのかという質問に、Dr.Fengは「深センは開放的な都市で、香港の隣であることもあって多様な人材が集めやすい。今いちばん課題となっているのは複数の専門分野における、多様な人材の採用だ」と答えた。
中国にも多くの量子コンピュータースタートアップが登場しているが、多くは北京の大学発スタートアップで、筆者が知る限り深センで起業しているのはSpinQだけだ。
SpinQのChief Technical AdvisorであるYike Guo氏は、英国エンジニアリング協会のフェローであり、Chief Science OfficerのBei Zeng氏は香港大学で物理学を教える現役の教授で、2020年の量子情報処理学会ではチェアマンを努めている。
また、SpinQへの投資には、深センの政府系投資企業である深圳高新投(Shenzhen High-tech Investment)も参加している。SpinQのコンピューターを購入して学校に「量子コンピューター室」を作ったのも深センの学校だ。
「低性能だが眼の前で触れる量子コンピューターが、体験・教育用に売れる」という市場を生み出したのは、SpinQだけでなく、そうした未来的で冒険的な市場に投資したファースト・ペンギン的なVCや、実際に買った顧客の功績でもある。
もちろん、2030年に本当に量子コンピューターが1兆ドル市場になっているのか、なっていたとしてもそこでSpinQが大成功しているかは、誰にもわからない。だが、Dr.Fengの話とSpinQの実績からは、「未来を予測する最高の方法は発明することだ」というスタートアップにふさわしい姿勢が感じられた。