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皆さんは「心不全」についてどのようなイメージをお持ちだろうか。「心臓が止まって命を落とす病気」と考えている人もいるかもしれないが、実はそうではない。心不全とは、何らかの異常によって全身に血液を送る心臓のポンプの働きが低下すること全般を指し、息切れや足のむくみなどの症状が現れ、少しずつ身体を蝕んでいく。
この心不全が怖いのは、一度発症すると再入院を繰り返し、入院するたびに死亡リスクが高まることだ。心不全の5年生存率は約50%であり、生存率で言えば日本人の死因トップを占めるがんよりも悪い。
ただ、心不全の再発を早期に発見し、薬物療法を行えば入院を避けることは可能だ。しかし、例えば血圧計のように、患者が自宅で症状の進行を客観的な数値を用いてモニタリングする方法は、ペースメーカーを胸部に植込むなどの手法に限られていた。
こうした状況を改善するべく、スマートウォッチなどで計測できる心電図データを用いて、心不全の重症度を数値化するAIが開発された。東京大学大学院 医学系研究科先進循環機器病学の藤生克仁特任教授と荷見映理子特任研究員らの研究グループが、SIMPLEX QUANTUM株式会社(東京都渋谷区)と共同開発した「家庭で心不全を早期発見するAIシステム」がそれだ。
同システムは、スマートウォッチなどの携帯型心電計で計測できる単一誘導心電図データから、心不全の重症度を高精度(91.6%)に分類できるもので、その導入により、心不全の患者が自宅で簡単に症状をモニタリングできるようになり、症状管理の効率化や患者の生活の質向上が期待されている。
藤生氏と荷見氏に、同システムの特徴や導入効果、今後の展望を聞いた。
藤生氏によると、心不全は高齢者がかかりやすい病気であり、一度発症すると半年以内に約3割が再発する。さらに入院を繰り返して、医療費も増大することから「医学上の最大の課題のひとつ」と捉えられているという。
ただ近年では、症状をモニタリングしながら「再発の兆候が出てきた」タイミングで患者に利尿剤などを飲んでもらうことで、入院を避けられることもわかってきた。とはいえ、心不全の再発の兆候を見つけることは容易ではない。心不全の主な症状である息切れや足のむくみを、患者が日々の生活の中で客観的に把握するのは難しい。前述のペースメーカーなどの心臓電気デバイスを使う手法もあるが、植込み手術のリスクが伴う。
「そこで、客観的な数値から再発の兆候を簡便につかむための新しい手法として開発したのが、今回の『家庭で心不全を早期発見するAIシステム』です」(藤生氏)
藤生氏によると「家庭で心不全を早期発見するAIシステム」とは、スマートウォッチなどで計測できる単一誘導心電図データを使って、心不全の重症度を判定するものだ。その重症度は、本研究で独自開発された「HF(Heart failure)インデックス」という指標で表示される。
「(重症度は)具体的には0から100の数値で出ます。健康なら『0』で、悪くなるにつれ『100』に近づいていくという形です」(藤生氏)
同システムの現時点で想定される使い方はこうだ。まず心不全の患者は、週に一度ほど自宅でスマートウォッチなどのウェアラブルデバイスを使って心不全の重症度を判定し、その数値を担当の医師に伝える。医師はその数値の推移を観察しながら「再発の兆候が出てきた」と判断されるタイミングで患者に利尿剤などを使ってもらい、病気が大きく進行するのを防ぐ。
「このシステムが導入されると、患者さんの助かる確率(生存率)が上がることに加え、再入院を防ぐこともできると考えられます。入院の回数が減れば、おそらく生命予後の改善や、医療費の削減も見込めます。さまざまな効果が期待できるAIシステムだと自負しています」(藤生氏)
藤生氏が今回のAIシステムを開発しようと考えたきっかけのひとつは「研修医時代の経験」にあるという。
実は医学の世界では、心電図は「不整脈を診るためのもの」であり、心不全のことは読み取れないというのが通説だ。実際、医学の教科書にもそのように書かれているという。
しかし、藤生氏が研修医の頃に、あるエキスパート(高い専門性と知識を持つ)の医師が、「心電図の波形には(不整脈以外にも)いろいろな情報が含まれている」と教えてくれたという。
「その先生は『みんな超音波検査や採血などいろいろな検査をして心臓のことを調べているが、そんなことをしなくても、波形を見れば(心不全の症状を含めた)いろんなことがわかる』と断言していたのですね。そのことがずっと気になっていたのです」(藤生氏)
現在、藤生氏は医療分野におけるAI活用の研究に携わっているが、近年「AIがエキスパートの医師と同等の能力を発揮できる」可能性が高いことがわかってきた。それと同時に、かつてエキスパートの医師が「心電図の波形を見ればいろいろなことがわかる」と言っていたことが思い出されたという。
「だったら、AIに心電図データを読み込ませて、不整脈以外のこと、たとえば心不全の進行度を判定させるのはどうだろうと考えました。今回の研究は、大枠ではそういった発想から始まったものです」(藤生氏)
藤生氏らが今回の研究開発でAI学習に用いたのは、東京大学医学部附属病院に保管されていた約1万人分もの心不全患者および健康な人の心電図データ(※1)だ。このデータには、循環器専門医が心不全の重症度を4段階で判定した情報(※2)が紐づいていため、藤生氏らはこれらのデータセットをAI学習に活用して、AIモデルを開発した。これにより、スマートウォッチなどで計測できる心電図データから、心不全の重症度を判定するAIシステムの開発に成功したという。
※1 ここで用いられたのは、胸部や四肢など合計12箇所から波形を記録した「12誘導心電図データ」
※2心不全の重症度をIからⅣの4段階で分類する「ニューヨーク心臓協会分類」に基づいた判定情報
なお藤生氏らは、入院治療を受けた心不全の患者を対象に、今回のAIモデルを使った「前向き観察研究」も実施している。具体的には、退院した患者に自宅で同システムを使って重症度(HFインデックス)を算出してもらい、数値の推移を観察した。すると、通常再入院するよりも早いタイミングで数値が上がってくることがわかり、「心不全の患者が自宅にいながら症状の悪化を早期に検出できる可能性」が示唆されたとのことだ。
「家庭で心不全を早期発見するAIシステム」を医療現場に導入するためには、まずは厚生労働省から「医療機器」として認定される必要があり、現在はそのための「治験を行っている最中」だと藤生氏はいう。さらにその先には、医療保険の加算対象として認めてもらう取り組みも必要であり、実用化までにはまだ時間がかかるようだ。
とはいえ、同システムが実用化されれば心不全のモニタリング環境が大きく改善されることは間違いないだろう。外来診療の現場をよく知る荷見氏は「全ての患者さんに行き渡るサービス(医療機器)にしていきたい」と意気込む。また藤生氏も「今の医療が向かいつつある『家で診る』『家で治す』という大きな流れを加速するものにしたい」と力強く展望を語った。
心不全の再発に不安を抱く多くの人のためにも、一日も早い実用化を期待したい。