「人とくるまのテクノロジー展 2025 YOKOHAMA」のセミナーに登壇した、株式会社Quemix代表取締役CEOの松下雄一郎氏
世界各国で開発が加速し、実用化が近づきつつある量子コンピューター。しかし、実際のビジネス現場でどのように活用されるのか、イメージしづらいという人も多いのではないだろうか。今回、自動車業界における詳細な活用事例が登場したのでご紹介したい。
2025年5月21日から23日に、公益社団法人 自動車技術会主催の「人とくるまのテクノロジー展 2025 YOKOHAMA」がパシフィコ横浜(神奈川県横浜市)にて開催された。その中で、株式会社Quemix代表取締役CEOの松下雄一郎氏が登壇し、「自動車業界における量子コンピューター活用事例」と題した講演を行った。
Quemix(本社・東京都中央区、2019年創業)は、量子アルゴリズム・ソフトウェアを開発するスタートアップだ。同社は、あと5年ほどで最低限のスペックの「誤り耐性量子コンピューター」(Fault-Tolerant Quantum Computer 以下、FTQC)が登場し、実用化が一気に進むと予測しており、FTQCの性能をフルに発揮するための量子アルゴリズムを開発してきた。
現在、松下氏らが特に注目している領域が、自動車業界の材料開発などにおいて原子や分子の状態を解析する「量子化学計算」と、自動車の設計段階などで性能をシミュレーションするための「CAE(Computer Aided Engineering)計算」、そして「機械学習」の3つの領域だ。
「これら3つ全てにおいて、これから5年間で量子超越(※)を実現するというのが、私たちの目標です」(松下氏)
※従来のコンピューターで膨大な時間がかかる計算を、量子コンピューターが圧倒的な高速で計算できること
松下氏はまず「量子化学計算」におけるFTQCの活用方法を説明した。
自動車製造の材料開発では、原子や分子を一つひとつ並べ、どのような性質を示すか、デバイスにどのような影響を与えるかを計算することになるが、実際の現場では200〜300、時には1000もの原子を扱うことがある。
しかし、5年後頃に登場するであろうFTQCは「せいぜい100論理量子ビットほど」の規模であり、「こんなビット数でリアルな問題を丸ごと解くのはいくらなんでも無理」だという。
そこで松下氏らが考案したのが「HPC(スーパーコンピューター)とFTQCを組み合わせるハイブリッドシステム」だ。
「おおまかに概念を説明しますと、まずはざっくりと全体をHPCで解き、その中で本当に高い精度が必要な部分だけをFTQCにアプライ(適用)して、高速かつ高精度に解くというアプローチです」
具体的には4つのステップに分かれるという。まずステップ1は、HPCで問題全体をラフに解く作業(密度汎関数計算)。続くステップ2が、その全体の中から本当に難しい部分だけを抽出する(部分抽出)作業。ステップ3では、FTQCを使って、ステップ2で抽出された部分の問題だけを高速かつ高精度に解き(基底状態計算)、ステップ4では出てきた答えを実験値と比較する(物理量計算)。
「ここで強調したいのは、全てのステップにおいて、これまでQuemixでは必要な要素技術を一つひとつ地道に作ってきているということです。これにより一気通貫で量子化学計算を行えるようになっています」(松下氏)
実際に同社は、本田技研工業株式会社と共同で、このアルゴリズムを使った量子化学計算を実行した。計算ターゲットにしたのは、電池材料のXAFSスペクトル(※)だ。松下氏によると、電池材料のXAFSスペクトルの計算は、電子の相互作用などを細かく考慮しなければならず、従来コンピューターでは非常に難しい作業だという。
※物質にX線を照射して得られる光の吸収スペクトルを解析する手法
「我々は、量子コンピューターを仮想的にコンピューターの中に作り上げて、実際にタスクをやらせてみました。すると、完璧な形でXAFSスペクトルを再現できることがわかったのです」
さらに松下氏らは、量子コンピューターを“擬似的にFTQCレベルに格上げ”する独自技術を用いて、イオントラップ型量子コンピューターの実機上でも同様の量子化学計算を実行。「理想的なFTQCと全く同じ動作をすることがわかった」とのことだ。
「ひとつ覚えてほしいのは、このFTQCのアルゴリズムというものが、もうすでに実機上で動きはじめているということです。これから量子コンピューターのビット数が増え、エラー率がどんどん下がるということになると、単なるHPCでは実現できない、量子超越の世界に入っていくと考えられます」
もう一点、会場の関心を集めていたのが「CAE計算」の手法だ。松下氏によると、このCAE計算においても、量子コンピューターは指数関数的に計算スピードを加速できる可能性があり「非常に大きな注目を集めている領域」だという。
しかし、実用的なCAE計算の量子アルゴリズムを考えていくうえで、大きな課題が2つある。
CAE計算を行う順序としては、まず量子コンピューターにデータを入れる「インプット」が最初にあり、その次に量子コンピューターが問題を解く段階、そして最後に計算結果を読み出す「リードアウト」と続く。このインプットとリードアウトの作業が非常に難しいというのだ。
こうした中で松下氏らが考案した解決策は、量子化学計算と同様「HPCとFTQCのハイブリッドシステム」を用いることだ。
「まずインプットの部分。(従来型の)コンピューターで量子コンピューターの初期値を(計算し)インプットしないといけませんが、これが難しい。しかし我々は、HPCを使ってインプットしたいデータを量子コンピューターに乗せやすい形に変換する技術の開発を進め、この“前処理”の部分を実現可能にしました」
ではリードアウトの方はどうするのか。実は量子コンピューターを使ったCAE計算の計算結果を読み出すことは「完全なミッシングピースで、これまで誰も有効な手段を見つけられていなかった」と松下氏はいう。
量子コンピューターを使ったCAE計算の計算結果には膨大な情報が載っている。しかし、その計算結果を量子ビットから読み出そうとすると、「観察した瞬間に状態(挙動)が変化してしまう量子の特性」によって、「1ピクセルの情報だけを残して、他の全てが消失してしまう」というのだ。
「つまり、せっかくフル画面で計算結果を出したとしても、読み出す時に1ピクセルしか読み出せず、量子コンピューターのいいところが全て台無しになってしまうのです」
こうした課題を解決するため、Quemixは本田技研工業と共同で「リードアウトの有効な手段の開発に成功した」と松下氏は胸を張る。
「“読み出しをせずに読み出す”という一見矛盾するような方法を開発しました。具体的には、特徴量のみを抽出してHPCで復元するといったテクニックを用いるもので、これにより量子状態でどんな情報を持っているのかを再現できるようになったのです」
「我々は来年以降、このCAE計算を実機上で動かしていくことになります。こうした技術を使い、CAE計算でも、5年以内に量子超越を実現していこうと考えています」
もう一点の「機械学習」に関しては、生成AIの利用拡大などにより急増する電力消費量を、量子コンピューターに置き換えることで削減する手法が紹介された。従来のアルゴリズムでは、大規模言語モデル(LLM)などのモデルを全て量子コンピューターのモデルに置き換えるアプローチが取られていたが、松下氏らはこれも「HPCとFTQCのハイブリッドシステム」を使って効率化するとした。
具体的には、AIモデルの一番ボトルネックになっている部分だけを量子コンピューターで加速する「一種のGPU(計算加速器)のような使い方」を提案しているという。この技術についても必要な技術は一通りそろっており「ユースケースや共同研究を募集している」段階とのことだ。
ハードの開発がどんどん加速する中、今後はQuemixのような量子アルゴリズムやソフトウェアを開発するスタートアップにも大きな注目が集まるだろう。アルゴリズムやソフトウェア開発が量子コンピューティング業界にどのような影響を及ぼしていくのか。引き続き動向を注視したい。