IoT機器自作をする「電子工作」を楽しむ人たちや、スマートホーム機器などのプロトタイプを開発する人たちにとって欠かせないのが、“マイコン”や“プロトタイプボード”と呼ばれる小型のボードだ。手のひらに乗るくらいのサイズの小型基板に、演算装置と出入力端子などがセットされており、そこにセンサーやカメラ、スピーカーなどの出入力機器をつなぐことができる。「Raspberry Pi(ラズベリーパイ)」略して「ラズパイ」と呼ばれる製品などがよく知られているが、他にもいくつもの製品が販売されており、多くは数千円から購入できる。どういった動作をさせるかのプログラムも自作するので、プログラミングの教育用にも活用されており、その分野では「Arduino(アルドゥイーノ)」という製品が最も有名だ。
こうした小型コンピューターボードのひとつに、「M5Stack」という製品がある。Arduinoシリーズと同じ開発環境が使え、かつArduinoでは難しいWi-Fi、Bluetoothなどの無線機能を最初から備えている。さらにLCD画面、いくつかのボタン、バッテリーまでもが搭載され、気軽に扱えるケースに入っている。製造元は、新興ながら多くのユーザーに支えられている深センのM5Stack社だ。2017年に最初の製品を出荷したM5Stackは、新興のボードメーカーながら、多くの活用事例を背景にシェアを伸ばしている。
ところで、その製品の魅力もさることながら、注目すべきは、同社のすさまじいまでの開発スピードの速さだ。
M5Stackは、2020年の1年間で60あまりのハードウェア新製品を発表した。つまり毎週1つ以上の新製品を発表したわけだが、ハードウェア企業としては異常な速度だ。アップルの新ハードウェアは年に2回発表される。製造や宣伝などのプロセスを考えると年2回でも早い方で、自動車ではだいたい2年毎にバージョンアップし、フルモデルチェンジは4年に一度なのが一般的だ。ソフトウェア企業はもっと多くのプロダクトを発表するが、毎週のように新プロダクトを発表している会社は思い当たらない。
しかもM5Stackは70名程度の社員で、うち30名ほどは自社製品の製造ラインで働くワーカーだ。製造を他社に任せるのではなく自社で手掛けている。
60種類の製品には、それぞれ部材の調達や生産計画、マーケティング計画やパッケージのデザイン、撮影など、ハードウェアならではの多岐にわたる作業があり、ひとつも疎かにできない。20名ほどのエンジニアは常にひとりが3〜4つの新製品に携わっている。マーケティングは、10名弱ですべての製品を手掛ける。マーケティングチーム全体のハードワークは想像に余りある。
同社副社長でマーケティングの責任者ソフィア・スーは、圧倒的に高速な開発スピードを「独自のマーケティング戦略によるもの」と話す。
その戦略の一端を知りたいと考え、2月5日、筆者が非常勤講師を務める早稲田大学ビジネススクールMBAコースのクラス「深センの産業集積とハードウェアのマスイノベーション」でM5Stackでのマーケティング戦略について講義してもらった。そこには、他の会社には実現不可能と思える戦略があったので、後半にその内容の一部を紹介するが、ソフィアの話に移る前に、同社がハードウェアスタートアップとして注目されるポイントをもう少し説明したい。
驚くべきスピードの製品開発にもかかわらず、M5Stackのプロダクトに粗製乱造の色はない。もちろん70名規模の会社から生み出される製品のすべてをソニーやアップルなどと比べるわけにはいかないが、スタートアップのなかでは高い品質と、優れた製品企画を実現している。
クラウドファンディングで開発資金を集める多くのスタートアップ製品には、達成後最初の生産だけで市場から消えていくものも多い。一方、毎週発表されるM5Stackの製品で、一度きりで製造が終わってしまった“ハズレ製品”は10%もない。また生産管理も素晴らしく、告知された製品の出荷が遅れたり中止となったりすることは稀だ。
自社で製造ラインを持つM5Stackでは、最低製造数(MoQ=Minimum order Quantity)も少なく、1000程度から生産を始められる。筆者も製品開発と量産のペースを聞いたときは、「深センのサプライチェーンを活かした、数撃ちゃ当たるアプローチ」だと思っていた。中国政府のスローガン「大衆創業 万衆創新」もいわば“数撃ちゃ当たるアプローチ”だ。ところが、M5Stackから毎週出される新製品では、空振りはきわめて少ない。もちろん毎回ホームランとは行かないが、ヒットや進塁打ばかりだ。
M5Stackが、どうしてこういったことを成し遂げられるのか。ソフィアはこう説明した。「プロトタイピングボードの市場では、レベルの高い開発者にどう気に入られるかが大事だ。実際に利益をもたらしてくれるのはレイトマジョリティだが、それはレベルの高い開発者が豊富な活用事例をネットに上げてくれるからだ。だから、レベルの高い開発者を常にひきつけ、かつアーリーアダプターとして接触してもらわなければならない。毎週新製品を出すのは、そうしたユーザーと常にコミュニケーションできる状態を続けるためだ」
実際にM5Stackの製品はグーグル、マイクロソフト、ソニーといった一流企業で働くレベルの高いエンジニアや、一流大学の工学部で働く研究者のヘビーユーザーが多い。そしてそうした人たちは、いつも素晴らしいフィードバックをくれるという。
「毎週の製品発表を行うようになってから、それまでよりも製品がヒットする確率は上がった。製品の数とともにプランニングの質が上がっている」(ソフィア)
もちろん、たくさんの製品をただ出すためではダメだ。ユーザーの期待に答えること、予測を裏切らないことで、信頼関係を築いていかなければならない。
さらに同社の製品プロモーションは、商品として完成する以前から始まっている。「社内の企画用のプロトタイプ」「量産前の量産設計段階」など、製品企画から製造までのいくつかのプロセスごとに、プロモーションのプランが存在している。「この段階はプロトタイプということがわかるように、製品名などは未定としてユーザーに見せよう」とか、「この段階になったら確定としてTwitterにあげよう」「この段階になったらYouTubeに出そう」など、製品、プロセスごとにきめ細かくプロモーションの手法と内容を管理している。
ソフィアは「これは、典型的なリーンスタートアップのアプローチだ」と説明する。つまり、ユーザーの期待に答えられる製品を、無駄を省いて最速で市場に出し、フィードバックを得て改善を行う。
現在は、アイデアから実際に売り出されるまで平均2カ月ほどなのだが、「これでもまだ遅すぎる。2カ月もたったらユーザーのアイデアも変わってしまう。深センならその2カ月で追いついてくる会社があるかもしれない」とソフィアは述べた。
さらに今回のコロナ禍についても、「時間のかかる製品だと、アイデアから売れるようになるまで半年ぐらいかかる。半年後の世界なんか予想できないことを、新型コロナは教えてくれた」
とはいうものの、必要なプロセスを省くと大きなトラブルを招き、どこかしら質が下がり、製品が出ないことになる。スピードのためにプロセスを犠牲にすることは考えていない。きちんとした設計や品質管理を実現した上でスピードを上げなければ意味がない。
だが、スタートアップにとって一番貴重なのは時間だ。中国がロックダウンに見舞われた2カ月の間、M5Stackの製造スタッフは、自分の家で担当の製造を終え、宅配便で次のプロセスの担当者に送っていた。ベルトコンベアを宅配便に変えて、少しでも製造を前に進めようと努力していたのだ。
ソフィアは「新型コロナで止まるようなら、それはスタートアップとは言えない」と静かに、しかし確信を持って語った。
M5Stackでは、概念試作などの製品企画のプロセスと、量産設計や量産そのもののプロセス、さらにはマーケティングのプロセスが一体化している。日本の大企業ではバラバラになりがちな複数のプロセスを一体化するデザイン思考のモノづくりは、米国のアップルなども得意とするところだ。
しかし、製品開発を超高速で進めることでデザイン思考を実現し、打数を増やすことで打率そのものも上げるアプローチは聞いたことがない。スティーブ・ジョブズでも2カ月でひとつの製品を作ることはできないだろうし、彼はユーザーからのフィードバックをあまり生かさないタイプのクリエイターだった。
M5Stackのやりかたは、ある種オープンソース的であり、リーンスタートアップといえないこともないが、そのどれとも違う。製品企画のプロセスイノベーションと言えるだろう。
ただし、このやり方を知ったとしても、このスピードで製品を世の中に出せる会社が他にあるかどうかは、筆者は思いつかないが。
※「M5Stack」は日本では筆者の勤務するスイッチサイエンスから販売されています。