この連載では、「生命」という言葉を広く捉えて、「生命」の周りで起こっていることを書きたい。生命科学の知見をもとにした技術が「バイオテクノロジー」である。ここではあえてバイオテクノロジーのみに特化せず、科学や工学、アート、倫理など領域を広げて、「生命」を考えながらバイオテクノロジーに触れていければと考えている。そして読者の皆さんにとってこの連載が、「生命」に関する興味を持つきっかけとなれば幸いだ。さらに、「生命」に興味を抱く多種多様な仲間が集い、アイディアを議論する場が生まれればと思う。もし可能ならば、未来に対してそのアイディアを実行に移すことも目指したい。この連載を通して、筆者自身もより知見を深め、広がりを持ちたいと考えている。
今回は、未来を創るには、現在何を考えるべきなのかを理解するため、過去からこれまでのバイオテクノロジーの発展を知る内容とした。次回以降の連載では、各章のより詳細な内容を伝えていきたいと考えている。
ここ最近、「バイオがくる」と耳にすることが増えた。しかし、専門外の人たちには一体何が「くる」のかわからないだろう。この「バイオ」とはバイオロジーもしくはバイオテクノロジーなどのことを指している。これは分野の名称であり、とても広い範囲を含んでいる。特定の技術名ではないので、この言葉からだけでは、具体的なものをイメージすることはできない。
そんな状況の中であっても、特定の技術やその技術に関する曖昧な情報が広がっていくことがある。一旦、拡散されてしまうと、その技術を阻止することはとても難しくなる。また、技術をどのように使用するかという選択をしなければいけない状況で、よくわからないという状態はとても危険だ。だからこそ、これまで以上に「生命とは何か」を自分たちで学び、考える必要があると思う。
過去を振り返ってみると「生命」に関する研究は、異分野の概念や技術の導入が大きな役割を果たしてきている。さらにその時代背景にあるものにも影響されるため、その時代でしかできないこともある。ゆえに持続可能なサービスを展開するならば、このような性質を持った「生命」を扱うという認識を持って臨むことが最良だと思う。
誰もが一度は「生命ってなんだろう」と考えたことがあるのではないだろうか。この「生命とは何か」という問いが、長く人を引きつけている理由は、自分自身が生命体であるということが挙げられると思う。さらに「生命」という抽象的な言葉が持つ曖昧性により、一層その魅力に引き込まれてしまうのではないだろうか。その結果、これまで「生命」はさまざまな観察者によって異なる角度から捉えられてきた。
生命科学の発展には、異分野の概念や技術の導入が大きく貢献してきた。その始まりは、生物の形態を観察し、分類を行う博物学としての生物学からであり、近代では物理学や化学の背景を持つ人たちが新しいアプローチをしてきた。物理学、化学の概念の導入により、生命現象は分子によって説明ができるという「分子生物学」や、生命現象は化学反応で説明できるという「生化学」といった分野が確立されてきた。こうした分野の確立とさまざまな発見により、生命の理解は大きく進展してきた。
その後、さらに情報理論、システム論などの概念が生命科学に導入され、「バイオインフォマティクス(生命情報学)」や「システムバイオロジー」という新しい学問体系が生まれた。こうした異分野との融合が、その時代背景の影響を受けて生命科学が飛躍を遂げることがある。例えば、機械工業の時代には機械論の概念が生命科学において優勢となった。そのおかげで、生命がどのように部品を使って動いているのか、その部品はどのように機能しているのかといったことの理解が進んだ。
そして、生命工学も、生命科学で得られた新たな知見をもとに発展してきた。さらにそこで開発された工学的技術が、生命科学のさらなる発展につながり、科学と工学は相互発展を促すようになった。現在、これらの技術によって「生命」の情報を読み、そこに手を加えることも可能となっている。さらに生命が持つ情報の蓄積も進み、次にこの情報を適切に使うという段階に来ている。
生命科学・工学は今後どのように発展し、応用されていくのだろうか。これまでも、生命科学・工学は医学、薬学、農学、食品、化粧品など多くの分野に貢献してきた。しかし、それら技術は高価で、小さな組織には手が届かないものだった。ところが近年、技術やハードウエアの性能が上がり、情報の処理速度も早くなった結果、コストが低下し、データの集積も進んだ。例えば、10年前と比べるとヒトのゲノム情報を読むコストも10000分の1以下で可能となっている(脚注1)。これまで専門家しか扱えなかったことが、個人やより小さな組織でも扱うことが可能になったのだ。
また、ゲノム情報やタンパク質情報など生命現象に関わる物質の情報は、デジタル情報として蓄積されるようになった。例えば、国立生物工学情報センターには、生命科学研究で得られたデータが蓄積されており、解析ソフトも含め、誰でもアクセス可能である(脚注2)。さらに、IoT技術が発展したため、生体情報をこれまで以上に安価で、高感度にセンシングできるようになった。このように生命をデジタルの情報として扱うことができるようになった結果、近年急速に発展している機械学習や深層学習といった人工知能の分野との相性も良くなった。さらには、これらの技術を用いて、生命科学研究のオートメーション化も進みつつある。人間と機械の新たな共同作業により、さらなる科学的発展や、技術の確立、そして、広範なサービスへの展開も考えることができるようになってきている。
個人やより小さな組織でも参画可能となったわけだが、生命科学・工学に対する表面的な情報だけを頼りに行動をすることは危険なことだ。ところで、嬉しいことに最近、生命科学・工学に関する情報をメディアで見る機会が増えているように思う。生命工学における技術のごく一部であるが、特に、「ゲノム編集」や「ゲノム解析」「iPS細胞」「再生医療」といったキーワードをよく見聞きするようになった。これらは素晴らしい技術であり、今後サービスとしても期待できるものだ。ただし、これらに関する情報は冷静な目で判断して受け取る必要がある。このような技術を社会に実装する時には、生命体、そして生態系を考慮して取り扱わなければならないこともある。その影響の及ぶ範囲、対象となる生命科学・工学の本質を見失うと、長期的に持続可能なサービスには発展させることはできないだろう。
まずは、生命科学分野の知識はまだ不完全さを含んでいるという認識が必要かもしれない。多くのことが解明されてきたとは言え、まだまだ研究者も生命の本質を全解明できているわけではない。実は、生命科学分野では現在進行形で教科書が書き換わっている。これまで常識とされていたことが、数年後には修正されることが多々あるのだ。これは、他の分野に携わる人から見れば驚きかもしれない。だからこそテクノロジーの側面だけでなく、生命科学の視点からもしっかり見る必要がある。今後、「生命」に関する科学・工学は、我々が現在認識する「生命」の概念を再定義することすらあり得るだろう。
MITメディアラボ所長の伊藤穰一さんも言うように、「サイエンスを見てテクノロジーを予言し、使っていく」時代なのだ(脚注3)。これらを考慮した上で、最近のバイオテクノロジー周辺の盛り上がりを良い方向に向けて、生命科学・工学、そしてそれらを使ったサービスの明るい未来を描くことができればと思う。
(1) https://www.genome.gov/sequencingcosts/
(2) https://www.ncbi.nlm.nih.gov
(3) https://media.dglab.com/2016/09/06-interview-joi-02/