多くの新型コロナ感染者を出したニューヨークでは、ワクチン接種が進んだこともあり、経済再開に向けての動きが活発になっている。ワクチン接種を終えた人々は、堰を切ったような勢いでレストランやバーなどに繰り出し、一時はゴーストタウン化した街の中心地には地元住民に加え、観光客の姿も戻りつつある。しかし、コロナ禍はまだ収束したわけではない。そこで注目されているのがワクチン接種証明書、いわゆる「ワクチンパスポート」である。アメリカでいち早くワクチンパスポートを取り入れたニューヨークではどのように利用されているのだろうか。現地在住の筆者がレポートする。
ニューヨークの繁華街、おしゃれなレストランが立ち並ぶミートパッキング地区のワインバー「シティー・ワイナリー」の前には、平日の夜だというのに多くの客が列を作っていた。列で待つ客がマスクを着用している以外は、まるでコロナ禍前のニューヨークの日常風景のようだ。しかし、レストランの入口ではスタッフが一人ひとり、スマホの画面や持参した紙切れを念入りに確認していた。このバーではワクチン接種完了、もしくはコロナ陰性証明書を提示できる客以外は入店お断りとなっている。
「4月2日から当店ではワクチンパスポートの提示を求めています。市内でもいち早く取り入れ、(NY州の発行する)エクセルシオール・パスなどを受け入れています」オーナーのマイケル・ドーフさんは話す。
マイケルさんは以前経営していた店舗を現在の場所に移転し、昨年4月に再オープンの予定をしていたが、コロナ禍が続いたため完全再開するまでちょうど1年かかったという。それまでは、NY州による規制のため、屋外エリアだけでの営業だったり、人数を制限の上、コロナ陰性証明書を提示できる客だけを店内に入れたりして営業をしてきた。また、苦肉の策として、証明書のない客向けに15分ほどでコロナ感染の結果が出る抗原検査を受けられる有料サービスも提供してきた。
NY州におけるワクチン接種の拡大とコロナ感染者数の低下を受けて、5月19日にはレストランやバーなどでの屋内における人数制限が完全に解除され、ワクチン接種を完了した客やコロナ陰性を証明できる客だけであれば、店内でのソーシャル・ディスタンスや飛沫防止の仕切り板の設置などの対策も必要がなくなった。その時からマイケルさんはワクチン接種完了者を積極的に受け入れるようになった。
筆者が取材に訪れた日も、店の前に並ぶほとんどの客がワクチン・カードやその写真、またスマホのワクチンパスポートアプリの画面を入り口のスタッフにみせて店内に入って行くが、中には証明書を持参せず店内に入れない客もちらほら見かけた。
全米で初のワクチンパスポートとされる「エクセルシオール・パス(Excelsior Pass)」とは、いったいどのようなものか?
クオモNY州知事は3月26日に同州内において、公式のワクチン接種デジタル証明書としてエクセルシオール・パスの運用を開始すると発表した。これはIBMの「デジタル・ヘルス・パス」というソリューションがベースとなっている。ブロックチェーン技術を活用し、個人情報などを保護し、利用者のコロナ検査結果やワクチンの接種状況を安全に共有できるアプリであると知事は説明している。
ワクチン接種やPCR検査などを完了した個人ユーザーが、必要な情報をこのアプリに登録すると、ユーザーの状態を反映したQRコードが発行される。店側は「エクセルシオール・パス・スキャナー」と呼ばれる店舗側のアプリでこのQRコードを読み取る。すると、QRコードが有効性など必要な情報を得ることができる。さらに、このQRコードは紙に印刷して使用することも可能である。現在では州内にあるレストランやバー以外でも、ヤンキースタジアムなどの競技場やコンサート会場などにおいても利用されている。
筆者もワクチン接種を完了しているので、エクセルシオール・パスをスマホにダウンロードしてみた。ワクチン接種の完了日、接種場所(NY州内の地区)、ワクチンの種類(ファイザー、モデルナ、ジョンソン・エンド・ジョンソン製)を記入するだけで、QRコードが発行される。ものの数分とかからなかった。
このアプリについてもう少し詳しく説明すると、ワクチン接種者の場合、完了日(ジョンソン・エンド・ジョンソン製は1回目、ファイザーとモデルナ製は2回目)から、ワクチンが有効になるとされる2週間後に、同アプリからQRコードの申請が可能になる。アプリ上には発行されたQRコード以外に、氏名と生年月日、そして1年間のパスの有効期限が表示される。
また、ワクチン未接種であってもPCR検査が陰性の結果を申請すれば3日間有効のQRコードが、さらに、抗原検査の場合は6時間だけ有効となるQRコードが発行される機能も備えている。Android OS、iOSアプリとして無料で提供されており、NY州によるとこれまでに約200万人のユーザーがダウンロードしたという。
シティー・ワイナリー前に並んでいたNY市在住のマギーさんにアプリについて尋ねてみると、「オンラインで自分の名前とちょっと情報を入れるだけで、本当に簡単だったわ。スマホに入っていて、ワクチン・カードを持ち運んで失くす心配もないし、本当に便利ね」と語っていた。
しかし、マギーさんと一緒に店を訪れていた、NY州に隣接するコネチカット州在住のアンドレイさんによると多少の不安もあるという。現在エクセルシオール・パスはNY州内でワクチンを受けた人にしか発行されていないので、他の州でワクチンを受けた人は、ワクチン接種を証明する紙のワクチン・カードを持ち歩かなければならない。さらに、アンドレイさんはアプリに登録された医療に関する個人情報などがハッキングされたり、売買されたりするのが心配だとも話した。
州外の客に対応するためにシティー・ワイナリーでは、民間企業であるクリア社が開発した「ヘルス・パス」や他州のワクチン・カード、さらには海外で発行されたワクチン証明書も受け入れている。しかし、それらの証明書の真偽を確かめる有効手段は今のところないため、オーナーのマイケルさんは「客の善意に頼るしかない」と語った。
また、米国ではこうした証明書の発行や利用に否定的な州もある。倫理的、もしくは個人情報保護の観点から、これまでにテキサス州やフロリダ州など全米の16州では公の機関などによるワクチンパスポートの使用やワクチン証明書の提示義務を禁じている。現在(日本時間15日)までにNY州以外にワクチンパスポートを正式に導入しているのは、ハワイ州だけであり、NY州でワクチンを接種した住民でもエクセルシオール・パスの使用はあくまでも任意であるとしている。さらに、アメリカ政府は「アメリカ人が(ワクチンの)証明書を持ち歩かなければならないようなシステムを支持しない」と発表し、全米共通のワクチンパスポートの導入には否定的である。
しかし、この先、地元経済を完全に再開するためには、ワクチン接種の有無は重要な情報になる。特に観光業が重要な位置を占めるNY市のような街では、州や国を超えて使用できるワクチンパスポートなどの証明書が必要だとの声も聞かれる。
実際に、NY市内で4店舗のレストランを経営するガブリエル・ストゥールマンさんは、店内で飲食をする際には16歳以上のすべて客に、ワクチン接種の証明書を必ず提示することを求めている。
NY州が店内における人数制限の解除を発表した際に、ガブリエルさんはすべてのスタッフと相談し、ワクチン接種を完了した客だけを店内に入れることをみんなで決定した。その上で、それまで設置していたアクリル板を取り払い、多くの客が入れるようにレストランの席も以前の配置に戻した。ワクチン接種を完了してない客や証明書を持たない客もいるので、そういった客向けに店外にあるテーブルで飲食が出来るオプションも提示している。このような対策が功を奏し、今ではレストランの売上はコロナ禍以前の額に戻ったという。
「店の中は1年以上前のようなエネルギーで溢れているよ。他人の隣に座って、グラスの音を聞き、仕切りもなしで、お互い安心しておしゃべりなんかもできるしね」
そしてやはりガブリエルさんも、この先観光客が以前のように戻ってきた際には、ニューヨークの住民だけではなく、他の州や海外からの客がワクチン接種を証明できるものが必要になってくるだろうと考えている。
* * *
NY州では現在18歳以上の約70%が1回のワクチン接種を終え、6月上旬には全米で最もコロナ陽性率の低い州となった。しかし、街を歩いていると、未だに多くのニューヨーカーたちがマスクをして生活を続けている。1年前に味わった死の恐怖と隣合わせの生活は、筆者の記憶にも生々しく残っている。コロナ禍以前の日常生活に戻るにはまだまだ時間がかかりそうだが、そのためにはワクチンパスポートなども含め、さまざまな手段についてこれから議論を重ねて検討していく必要がありそうだ。