言葉に出したくても、声として口から出てこない……そんな症状を抱える疾患がある。「吃音症」だ。日本に120万人、世界に7600万人の患者がいると言われ、おおよそ100人に1人くらいの割合で認められる。
しかし、その原因は現代科学をもってしても判明していない。個人によって発症するメカニズムが異なり、一律に原因を特定できないためだ。その症状も、「改善」することはあっても、「完治」することはないとされる。というのも、「どもる」ということ自体は誰にも起こりえる症状であるためだ。
その吃音症に対し、ITの力で改善に取り組もうとする動きがある。VR(バーチャル・リアリティ)を用いたトレーニングアプリ「Domolens」だ。Android OSを使用したGalaxyスマートフォン向けのアプリケーションで、「Galaxy Gear VR」や「Oculus Go」などのVR端末を装着して利用する。
内容は「面接VR」、「プレゼンVR」、「自己紹介VR」、「電話VR」の4種類あり、それぞれの場面ごとにどもらずに喋るトレーニングができる。現時点では360度のVR映像が流れるだけだが、今後はスマートフォンのマイク機能を用いたAIによる音声認識で、話者がどもらずに喋っているかどうかを判別し、それによってVR映像中の相手の反応を変えたりする機能を開発しているという。こうすることで、訓練者の環境に応じたトレーニングが可能になる。
この「Domolens」の開発者が、梅津円さん(26)だ。梅津さんは立教大学経済学部に在籍するかたわら、2019年4月から吃音症改善のための活動母体となる組織「Adversity Project」を立ち上げ、活動を続けている。
「Domolens」の狙いについて、梅津さんはこう話す。
「成人吃音者の4割が、緊張のあまり人前を過度に避けようとする『社交不安障害』を抱えているといわれています。この社交不安によって吃音が出る場面を避けてしまうことで、吃音の症状が悪化し、吃音における課題感が増してしまいます。吃音臨床においてもこの社交不安に対するアプローチの重要性が高まっており、その多くは認知行動療法に基づいた心理的なアプローチによって改善することができると言われています。治せるはずの人を治したい……そんな思いで開発に取り組みました」
実は、そんな梅津さんもかつて吃音者であったという。
「自分もかつて吃音に悩まされていました。吃音を努力して治したい、という思いもずっとあったのですが、大学に入学した直後は、喋ること以外で自分の強みを見出そうとしていたんです」
梅津さんはまずは自信をつけようと、学生団体に所属して営業をやったり、ライター業をこなしたりしていた。そうしているうちに、自信というものが身に付いたという。
「大学3年生の時に、そろそろ逃げて避けていた接客の仕事をしてみようと思い立ったんです。そしていざやってみたら、『別人』と言われるぐらい劇的に改善したわけです。ゴリ押しでやってみたら治るんじゃないかと期待はしていたんですが、それがそのまま当てはまった感じですね」
改善の理由は、その接客の職場環境にあった。それまで梅津さんの頭の中には、お客さんの前でどもってしまったら失敗だという思い込みがあった。
「それが、どもってしまっても同僚やお客さんからも責められなかったんですね。飲食店でバイトしていたのですが、逆にちょっとしたことでもお礼を言われたりして、こんな自分でも役に立てるんだ、という自己肯定感が芽生えてきたんです。これが、吃音の改善に繋がったのだと思っています」
こうした成功体験をもとに、梅津さんは自分以外にも吃音症に悩んでいる人の役に立ちたいという考えが芽生えた。
「自分のいた接客の現場がすごく良かったので、そこに吃音の人を人材派遣しよう、と考えたんです。最初はVRなんて全然頭になかったですね。それでいろいろ模索しているうちに、VRのセミナーを紹介してもらって、VRのすごいところは体験に価値があるという説明を受けたんです。それで、これならいけるとひらめいたんです」
実際にお店で働くにはいろんな制約があるが、VRなら場所や環境に縛られず、吃音者の課題と向き合い、解決ができる。そして吃音の改善は、吃音者自身が状況や課題を設定して、失敗がいくらでも許される環境に意識的に向かうことだと梅津さんは考えた。VRであれば、自分のペースで何度も練習を繰り返せる環境をいつどこでも再現できる。
「そうしていたら、吃音症研究者の方から、アメリカのジョージ・ワシントン大学の研究論文を渡されたんです。読んでみたら、自分がやろうとしていたことは科学的にも有効な方法だと知りました」
特に大きな発見だったのが、吃音という症状は、統合失調症やうつ病とか自閉症とか他のさまざまな精神疾患にも影響を及ぼしているということだった。
「吃音の原因は脳に問題がある、という見方がいま主流です。つまり、脳に問題がある疾患を改善できるということは、こうした他の精神疾患の回復にも繋がるのではと思いました。雷が落ちたような衝撃でしたね」
こうして、梅津さんは吃音症改善のための研究や開発をやろうと思い、本格的に取り組み始めるようになる。アプリの研究・開発においては、毎日新聞社の「毎日みらい創造ラボ」やデジタルガレージが主催する「Open Network Lab BioHealth」などのアクセラレータプログラムを活用してきた。そして「Domolens」が誕生。この4月からは東京・新宿区にある精神科外来クリニックと協働し、試験運用を開始した。
「まだ研究・開発段階が続いているのですが、『Domolens』は80%ぐらいのところまでできたのではないかという手応えがあります」
吃音だけでなく、精神疾患全般の改善に役立つようなものにしていくことが目標で、サービス開始後は、アプリの月額課金や、VR機材のレンタル代などでマネタイズしていく計画だ。
実は筆者も吃音者のひとりである。令和の時代に改善法が確立されるだろうか、同じ悩みを持つひとりとして、願いを込めたいところだ。