クリス・アンダーソンが『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』を出版してから10年以上がたち、市井の発明家を指す「メイカー」という用語も定着してきた。
深センに本社を置くSeeed Technology(創業当初の「Seeed Studio」という名称で知られている。以下、Seeed)は2023年の2月15日、深セン証券取引所の創業板(新興企業向け市場)へIPO申請を行った。
Seeed創業メンバーのエリック・パン(Eric Pan)氏は、伝説的なメイカーのひとりで、創業前には「中国国内を自転車でまわっていた」「深センのガレージで友人と創業した」など、ヒッピー的なライフスタイルを好む人間だと評されてきた。大学卒業後インテルに入社し、研究開発の仕事を始めたが、1年ほどで退社した。「世界で一番すごいコンピューターの会社に入社してモノづくりに取り組めると思ったが、入社後の仕事は官僚的で興味を持てなかった」「インテル時代の上司を見ていて、将来ああなるのは嫌だなと思って退社した」などと、インタビューで語っている。
Seeedは現在、世界有数のメイカー企業になったが、その成長過程で中国の政策に大きな影響を及ぼしてきた。中国がスタートアップ大国となる原動力のひとつと言える存在だ。2008年に起業し、2011年に中国での初期のメイカースペース(市井のモノづくり愛好家が出会うための開かれた場所)のひとつを開設し、同年に中国で初めてのメイカーフェアを深センで行った。その後も、コロナ前の2019年まで、毎年深センのメイカーフェアを支えてきた。
世界的な流れとして、人はスマートフォンでネットワーク化され、産業分野でもIoTによってコンピュータネットワーク化が進んだ。さらに、新しい視点を持つ発明家が起業したスタートアップが、世界を変えるイノベーションを生み出した。この流れが「メイカームーブメント」と呼ばれ、広く認識されるようになった。
プログラマーで随筆家、そしてYコンビネーターの共同創業者でもあるポール・グレアムは、2012年10月に「ハードウェアのルネサンス」と題した自身のエッセイで最近、ハードウェアのスタートアップが続々と登場していることを記している。2014年には、当時のオバマ大統領がホワイトハウスでメイカーフェア(White House Maker Faire)を開催した。
中国では、2015年から「大衆創業・万衆創新」というボトムアップの起業キャンペーンが始まった。このキャンペーンは、Seeedが深センに開設した「柴火メイカースペース(柴火創客空間 Chaihuo Maker Space)」を李克強首相が訪問したことから始まったといわれている。その後、メイカーフェア深センは中国政府の期待と補助を受けて拡大し、2015年には世界最大規模の20万人を集めるフェアとなった。運営のSeeedは、翌年から西安・成都など中国各地で行われたメイカーフェアの運営協力にも携わることになった。
Seeedは創業当時から、深センのサプライチェーンを海外の発明家に提供するPCB基板製造サービスを展開している。欧米の発明家と協力して、彼らの製品を量産化するプロジェクトも多く、当時のスローガン「The Maker for the Makers」 は同社の特徴をよく表している。業態はサービス業に近いが、それ以上に一緒にコミュニティを作っていく姿勢が現れている。
柴火メイカースペースやメイカーフェア深センも、利益よりもコミュニティ構築を意図した活動と言える。一方、そうしたコミュニティ活動が大成功したことで、中国政府との距離が近づきすぎ、窮屈になる弊害も生んだ。深セン市にメイカー活動を運営するアライアンスができて以降、Seeedはいくつかのフェア運営から手を引いた。そして「メイカーフェア深セン」に関しては、Seeedと信頼できるパートナーたちで運営する小規模なものに回帰した。ピーク時400人近くまで拡大した同社の従業員は、再びブーム前の250人程度にスリム化した。
現在のスローガンは「Global IoT Enabler」(世界的にIoT開発プロジェクトをつなぐ)だ。IPO申請時の資料を見ると、2022年時点で総売上7.49億元(約142億円)、利益1.46億元(約27.7億円)まで拡大した同社の売上は、エッジコンピューティング、ネットワーク機器や、NVIDIAなどの開発ボードやチップを使いやすい製品に仕立て上げたSeeed自らのハードウェア製品が主体だ。創業当時のサービス主体の会社から、自社製品の開発・販売が中心となった。売上の9割はアメリカなど海外からで、世界的な有名企業のモジュールを使うことで互換性を担保しながら、競争力のある製品を販売できていることで売上を伸ばし続けている。
創業当時にも、世界的に有名なオープンソースハードウェアであるArduinoの互換品Seeeduinoなど、一貫して自社製品を作り続けていたが、現在は「ハードウェアメーカー」としての色がより鮮明になっていると言える。上場時に挙げられた比較対象企業も、広和通、移遠通信、移為通信など、ネットワーク機器のメーカーばかりで、「メイカー企業」との比較はない。
また、今回のIPO申請にあたってのニュースの中で、「メイカー」に触れられている部分はとても少ない。
だが、世界のメイカーたちにとって、今回、IPO申請はとても明るいニュースだ。エリック・パン氏がDIYを好むメイカーであることは、世界各国のフェアで彼に出会ったあらゆる人が知っている。創業期のSeeedの売上をメイカー向けのサービスが支え、同社が世界のメイカーたちと交流することで新しい製品のアイデアを見つけ、育ててきたことも事実だ。
「メイカーフェア」というイベントを始めた米メイカーメディア社が2019年に経営破綻し、アメリカを代表するメイカースペースであったTechshopも2017年に倒産。さらに日本のTechshopTokyo も2020年に閉店するなど、メイカー界には暗いニュースが多かった。
今回、メイカーからハードウェア・スタートアップが生まれ、紆余曲折を経てIPO申請にまでたどり着いたサクセスストーリーとして、メイカー界の歴史に残る出来事と言える。
今回のIPOで、Seeedは7.75億元(約147億円)の調達を計画している。資金用途は、新しい研究開発センターを建設し、設備と人材を強化することで、超低消費電力インテリジェントセンシングシステムの産業化、新世代エッジコンピューティングプロジェクトの産業化などを進展させる。出展するイベントもドイツのEmbedded Worldなど、産業向けのイベントに広がっている。
現在のSeeedは、かつてエリック自身が1年で飛び出したインテルのようなネットワーク機器製造業会社になった。今後、ますます研究開発スタッフが増えるだろうし、上場企業の研究開発担当として入社するスタッフは、ヒッピー時代の仲間とは違う人間性を持っているだろう。
IPO申請に伴う報道では、スタートアップ時代のおおらかなファイナンスによる罰金について触れられたものも多かった。IPOを準備するにあたって、調査に全面的に協力して課徴金を収めたことなどにより問題にはなっていないが、上場することにより、今後はより厳格なガバナンスが適用されることになる。インテルのような会社ではなく、しかし研究開発中心の大企業を経営していくのは、Seeed経営陣にとっても大きなチャレンジと言える。
それでもエリックの頭にあるのは、世界のメイカーのためによい製品を作り続けることだろう。
中国のコロナ対策が終わり、海外からの入国ビザも再開されている中、おそらく2023年にはメイカーフェア深センも再開し、Seeedのメイカースペース「Xfactory」にも海外メイカーたちが戻ってくる。IPO後のSeeedは、そこで我々の前に新しい姿を見せてくれるだろう。