もはや新興国と呼ばれる段階を抜け出したタイは、IoTとAIエンジニアの育成に大きな投資を始めた。タイのスタートアップGravitech Thailandは、20万台のマイコンボードをタイ全土の学校に配布している。
タイが、「中進国の罠」に陥っていると言われて久しい。1990年代までのタイは、低賃金を武器に、労働集約的な製造業を先進国から誘致することで急成長を遂げたが、その後の成長スピードはスローダウンしている。次のステージは付加価値の高い自国産業を育て、労働力勝負の産業を他国に移転することで、タイ政府はその道を模索している。IoTとAIはその有力な分野のひとつだ。
IoTとAIは、どちら利用目的・場所ごとにカスタマイズされたソリューションが必要とされるテクノロジーであり、自分で工夫してソリューションを作り上げられるエンジニアやスタートアップが多く必要とされる分野だ。タイ政府は、そうした起業家とエンジニアを自国で育成するために、IoTとAIの教育導入に大規模な投資を行っている。
タイ政府は、タイ全土の中学・高校・大学にIoTの開発が可能な、3Dプリンタ等を備えた工作ラボを整備している。さらに政府組織のタイ国家科学技術開発庁(NSTDA,The National Science and Technology Development Agency)が主導してKidBrightというIoT教育プラットフォームを開発した。
KidBrightは、ブロックを組み合わせるようにプログラミングができるプログラミング環境だ。ブロック型のプログラミング環境といえば、米MITのScratchなどが有名だが、これらを利用したプログラミングでは、スペルミスが存在せず、文法の間違いなどを把握しやすい。そのため、多くの教育用プログラミング環境で使われている。
データを取得するデバイスであるIoTと、解析するクラウド上のAIは、どちらかが欠けると成り立たない、セットで考えるべきテクノロジーだ。たとえば車の交通量を調べるためには、レーザーセンサーなどの物体を検知するセンサーを使う方法と、カメラの映像からAIで車だけを切り出して数を数える方法がある。2つのテクノロジーの境界はますます曖昧で、組み合わせて考えることが重要になってきている。
そのため、KidBrightはハードウェアとしてのIoT開発ボードを備えている。タイのスタートアップGravitech Thailandが設計・製造しているKidBrightマイコンボードはタイ政府がまとめて購入し、第1期として20万枚のKidBrightボードが全校の工作ラボに配布された。KidBrightの価格は一つ35ドルほどとはいえ、20万枚はスタートアップのボリュームではない。Kickstarterなどのクラウドファンディングに公開されているプロジェクトでも、万を超える発注を集めたハードウェアは見たことがない。
KidBrightボードを設計・製造しているGravitech Thailandは、バンコク出身のパン・シャノン・ツラバビ(シャノンはイングリッシュネーム)氏が米国で起業したGravitech usaの関連会で、米国からタイに逆輸入されたスタートアップと言える。
バンコク出身のパン氏は米ネバダの大学に進み、電子工学の博士号を取得した。大手電機メーカーのGEで働いた後、2006年にGravitech usa を起業した。
パン氏の手掛けるビジネスは、有名な電子工作開発ボードであるArduinoの製造や周辺機器の設計開発など、世界的な電子工作のブーム「メイカームーブメント」に関係するものだ。2012年にクリス・アンダーセンの著書「メイカーズ 21世紀の産業革命が始まる」が大ヒットし、2014年にオバマ大統領(当時)がホワイトハウスでメイカーフェアを行うなど、アメリカのDIYムーブメントが拡大し始めたが、その潮流にのってGravitechは成長した。
メイカームーブメントの波がタイにも届くことを感じたパンは、2015年にGravitech Thailandをバンコクで起業し、ハードウェアスタートアップの駆け込み寺としてHome of Makerというメイカースペースをバンコクに構えた。また、DIYの祭典メイカーフェアを、タイ国家科学技術開発庁と協力してバンコクで開催した。
2015年当時は、それほどでもなかったバンコクでのメイカームーブメント・IoT開発ビジネスだが、その後タイ政府の期待が高まったことはこれまで伝えてきたとおりだ。ここ数年、パン氏とGravitech Thailandは自国からのイノベーションを促進しようとするタイ政府にとって期待の星になっている。
タイではIoT、AIなどの技術に関する教育は、起業家教育とセットになっている。プログラミングやセンサー、AIの使い方そのものを教えるだけでなく、そうした技術を用いて何かのソリューションを作り、社会の課題を解決してビジネスに繋げることが強く意識されている。
現時点では、IoT教育は大学受験に組み込まれるような必須科目ではなく、課外授業としての扱いだが、整えた環境を活かすための、IoT+AIをテーマにした学生のビジネスコンテストも盛んに開かれている。
タイの教育システムは日本と似ていて、文科省が「どういう科目をどうやって学ぶべき」という指導要領を確定し、公立・私立問わず指導要領に準拠する。大学への入学に必要な共通試験も、その指導要領に基づいて決まる。そこにIoTやAIは入っておらず、KidBrightを使った取り組みはまだ課外授業としての段階にとどまっている。それだけに意欲のある学生にとってチャレンジしがいのある環境を作れているようだ。
日本でも2020年から小学校でのプログラミング教育が必修化されたが、プログラミングの何をどうやって教えるのかは各現場まかせになっており、ネットワークやコンピュータなどの環境も整っていない学校が多い。そのため、環境のない多くの小学校ではパソコンを使わずフローチャートを黒板に書くといったような学習が行われている。
日本にもPCN(プログラミング・クラブ・ネットワーク)のような草の根プログラミングスクールやIchigoJamなどのスタートアップが開発した、優れたプログラミング学習ハードウェアはある。だが、日本政府が調達しようとしているのはiPadやChromebook等の外国製品で、学校でプログラミングを教えられるクラブを整備しようという人的投資も追いついていない。
IoT+AI製品を作り出す教育への投資が、同時にスタートアップを育成するシーンを作り出していることについて、我々はタイから学ぶべきかもしれない。