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中国の「電子身分証」が目指す未来 プライバシーと利便性の均衡点とは

上海市の生鮮スーパー「盒馬鮮生」。アリババグループが出資する同スーパーでは顔認証決済が導入されている。

上海市の生鮮スーパー「盒馬鮮生」。アリババグループが出資する同スーパーでは顔認証決済が導入されている。

 ポイントカードが邪魔だ。ドラッグストアやスーパー、家電量販店、衣料品店などなど。これにクレジットカード、免許証、保険証もあるのだから、財布はカードでいっぱいになってしまう。最近ではアプリで代用できるポイントカードもあるが、今度はスマホに大量のアプリをインストールしなければならないのがやはり面倒だ。

「スマホ先進国」中国ではこの悩みを解決する方法が登場している。それが「微信支付(ウィーチャット・ペイ)」と「支付宝(アリペイ)」だ。ウィーチャットはテンセントが提供するスマートフォンのメッセージアプリ。ミニプログラムと呼ばれるさまざまな機能をアプリ上で実行することができる。お店ごとにいちいちアプリを導入しなくともウィーチャットだけで管理ができるわけだ。アリババグループが提供する決済アプリ、アリペイもミニプログラム機能を導入した。

 ウィーチャットとアリペイがいわばポータル(窓口)として各種アプリと同等の機能を持つようになっているのだ。そしてその動きはポイントカードのみならず、免許証や保険証に相当する公的証明書にまで広がっている。

電子身分証普及の中国的展開

 昨年末、広東省広州市で「電子身分証」の試験運用が始まった。「身分証」とは、中国国民の身分を証明するカードだ。日本のマイナンバーカードに相当する。異なるのは中国において身分証の取得は義務であるという点だ。飛行機や高速鉄道に乗る時など本人確認に用いられるため、常に携帯しておく必要がある。この身分証をスマホで表示できるようにすれば、忘れることがなくなって便利という寸法だ。

 登録方法、利用方法については中国在住ライターの林毅氏が詳しく説明している(辺境通信「実物解剖:広東省から始まる微信身分証」)が、電子身分証を提示する場合、顔認証と声紋認証をクリアしないかぎり身分証が呼び出せない仕組みとなっている。そのため信頼性は高く、他人の身分証を使って手続きをすることはきわめて困難になっている。

 この電子身分証のニュースはAFPの記事で取り上げられるなど、中国内外で話題となった。中国のスマートフォン・サービスや監視社会化に注目が集まる中、「中国は身分証までもスマートフォン化するのか」という驚きがあったためだろう。

 もっともこれまで報じられていなかっただけで、各種証明書の電子化はこれまでも施行されてきた。実は2016年の時点で、アリババグループは決済アプリ「アリペイ」に電子身分証機能を搭載している。ただし試用できるのは湖北省武漢市のみだった。身分証以外でも運転免許証や医療保険カードの電子化も各地で試行が進んでいる。

 このあたりのやりとりはなんとも「中国らしい」。巨大企業による資本の論理が社会システムを変えつつあるという現状は印象的だ。さらに身分証という全国民が保有するカードを電子化するならば、全国一律の取り組みが進んでいると早合点してしまうところだが、各地方自治体が強力な権力を持つため、地方ごとにばらばらに取り組みが進んでいるという。アリペイを擁するアリババグループと、ウィーチャットを擁するテンセント、中国IT業界を二分する巨大企業が各地方自治体にアプローチをかけているためだ。双方のアプリに対応した地域もあれば、片方しか使えない地域もあるのが現状だ。アリババグループもテンセントも自らのアプリの利便性を高め、シェアや利用回数を増やすことに躍起になっている。公共サービスとのタイアップは強力な切り札になるだけに、今後は多額の研究開発費、マーケティングコストが投じられる「戦場」のひとつとなりそうだ。

プライバシーと利便性のバランス

 中国人はなぜ電子身分証など監視社会につながるシステムを受け入れるのか。一党独裁政権を持つあきらめか、あるいはプライバシー意識の希薄さゆえか。日本ではこうした分析を見ることが多いが、往々にして見逃されているのが利便性という観点だ。

 例えば保険カードの電子化。保険料の支払いから保険金の請求までがスマホの中で完結する。身分証や免許証については現時点ではカードの代わりに本人確認できるという点にとどまっているが、偽装困難な本人確認手段がスマホに搭載されることで、さまざまな手続きを簡素化できる可能性を秘めている。

 かつて中国ではもろもろの手続きは大変な労力が必要だった。お役所にいっては長い行列に並び、書類の不備で引き返し、あるいは別の場所にたらい回しされる。ひとつの役所で手続きが終われば別の役所に出向き……と延々と面倒な手続きが続く。これぞ官僚主義、これぞ社会主義という世界がスマートフォンによって急速に変わりつつある。以前ならば中国の知人と行政手続きの話をすると、中国の非効率を嘆くのが定番だったが、最近では日本行政の古さを小馬鹿にされることすらある。

 進展に違いはあってもどこの国でも同じ状況が起きつつある。昨年9月、ポーランドでは身分証明書のデジタル化を発表した。携帯電話のSIMカードと身分証が紐付けられ、携帯電話に表示する形で身分証を提示することになるという。

 プライバシーの懸念はあっても、それ以上の利便性を求めて電子化を追求する。このトレンドは止められないだろう。

 アリババグループの創業者ジャック・マー(馬雲)は将来、スマホさえ不要になる未来を描いている。顔認証などの生体認証だけで完全に本人確認ができるようになる。しかも中国国内だけではなく世界中にそのシステムが広がり、パスポートを持たずに海外旅行ができるようになる、と。

 パスポートを持たずに海外旅行できる便利な世界と、街角の監視カメラが個人を完全に認証する監視社会は表裏一体だ。プライバシーと利便性をどこでバランスさせるのか。中国の取り組みは日本にとっても見過ごすことのできない先駆的な事例である。

高口康太 Written by
ジャーナリスト、翻訳家。 1976年生まれ。二度の中国留学を経て、中国専門のジャーナリストに。『ニューズウィーク日本版』『週刊東洋経済』など各誌に多数の記事を寄稿している。著書に『なぜ、習近平は激怒したのか――人気漫画家が亡命した理由』(祥伝社)、『現代中国経営者列伝』(星海社新書)。