コンピュータの処理能力の飛躍的な向上とAI(人工知能)の発達、さらに光や温度変化などをとらえるセンサーが精巧になり、「視覚」や「触覚」など人間の五感から得られる情報をデータ化し、解析することが容易になった。これらを利用した新たなビジネスも世界中で進められている。
すでに「視覚」については活用が進んでおり、カメラに顔を向けるだけで本人確認ができる顔認証システムなどが普及している。また「聴覚」であれば、工場設備の異常音をセンサーで検知し、故障を知らせるシステムが実用化されている。
「触覚」や「味覚」に関してもそれぞれ専用のセンサーが開発され、データ活用が積極的に進められている。こうした中で「発展途上」といわれているのが「嗅覚」のデータ化であり、それを感知するセンサーの開発だ。意外と思われるかもしれないが、ニオイのセンサーや解析に関しては、現時点では世界を見渡してもまだこれといったものがない。
ニオイには豊富な情報が含まれている。この情報をうまく“かぎ分け”データ化することができれば、果物の熟度をニオイで判定し鮮度管理に役立てたり、人が吐く息からから病気の予兆を検知して健康管理に役立てたりと、さまざまな形で活用できる可能性がある。
だが、ニオイを形成する分子は40万種以上もあり、そのうち数百から数千もの分子が混ざり合って、ひとつのニオイができている。こうした複雑な分子の組み合わせを的確に把握し、意味のある情報に変換するのは極めて難しい。実際、嗅覚センサーの開発は30年以上前から試みられているが、多くのニオイをかぎ分けることができ、実用性と汎用性をバランスよく持った製品はいまだ実現していない。
こうした中で、「これならいけるのでは」と大きな期待を寄せられているのが、国立研究開発法人 物質・材料研究機構(NIMS)の吉川元起氏らが開発した嗅覚センサー「MSS(Membrane-type Surface stress Sensor:膜型表面応力センサー)」だ。MSSが従来の嗅覚センサーと比べ優れている点、および急ピッチで進む実用化への取り組みを、吉川氏へのインタビューを交えながら紹介する。
MSSの大きさは指先サイズ
MSSと従来の嗅覚センサーの違いを吉川氏に聞いたところ、「使いやすい」というのがその答えだった。「汎用性が高い」「小型化できる」「感度が高い」という3つの特長がバランスよくそろっているから「使いやすい」のだという。
――「汎用性が高い」とはどういうことですか。
MSSは、センサーの中央部に「感応膜」というものを塗ってニオイを検知する仕組みになっています。この感応膜とは、ニオイの分子が吸着すると膨らんだり縮んだりする膜のこと。MSSはこのひずみを電気信号に変えることで、ニオイをデータ化しているのです。「汎用性が高い」というのは、この感応膜の選択肢が広いことを指します。
――現在どれくらいの数の感応膜が?
数百種類以上あり、今も数を増やしています。これまでに試したどんな材料でも、MSSに塗ると感応膜として機能することが確認されていますので、用途に応じてさまざまな物質を活用できます。
――これまで汎用性のある嗅覚センサーはなかったんですか。
汎用性が高い嗅覚センサーというものは、これまでも開発されてきました。MSSは、これに加えて感度も十分に高くできるという点が大きな特色です。条件や感応膜次第ではありますが、従来の汎用センサーと比べて桁違いに高い感度を実現できる可能性も確認されています。
――「小型化できる」というのは?
従来の嗅覚センサーを組み込んだシステムは、大型で持ち運びが困難な場合が多かったのに対し、MSSを組み込んだモジュール(ニオイをデータ化できるユニット)は簡単に小型化できます。たとえば、これは企業の実証実験用に配られているモジュールですが、ご欄の通り、手のひらに収まるサイズです。
日本発、業界標準を目指す
「汎用性が高く」「小型化でき」「高感度な」嗅覚センサーというものがあれば、さまざまなニオイをその場でデータにすることができる。つまりMSSは、吉川氏が言うように「使いやすく」さらにいえば、実用化に極めて近い位置にいる嗅覚センサーといえるのだ。
期待値が高いだけに、MSSの開発に加わる企業や研究機関が後を絶たない。2015年には、NIMS、日本電気(NEC)、京セラ、住友精化、ナノワールド、大阪大学、旭化成(2017年4月から参加)が集まり「MSSアライアンス」が結成された。この取り組みの中で、先述したMSSを組み込んだモジュールや、得られたデータを解析するためのシステムなどが開発されてきた。
さらに2017年11月、MSSアライアンスは「MSSフォーラム」を発足。これは、MSSを用いた実証実験を行う企業を一般公募する取り組みで、審査を通過した企業により、今年(2018年)から、ビジネス活用を見据えた実証実験がはじまるという。
MSSアライアンスが目指しているのは、「MSSの業界標準化」だ。MSSアライアンス事務局の担当者は、「MSSを無線通信のWi-Fi規格のような存在にしたい」と語る。
吉川氏が目指しているのは、MSSが組み込まれた、さまざまな用途に応じた嗅覚センサーがより簡単に作ることができるようになることで、「将来的には、ニオイを測ることが当たり前の世界にしたい」と語る。単機能のセンサーを作るのではなく、標準的に使える技術体系の提供を目指す姿勢からも、業界標準化への思いが伝わってきた。
***
インタビューの最後に吉川氏は、今後予定されている小型化の計画についても教えてくれた。現在のモジュールには、ニオイを吸い込むためにポンプが組み込まれており、サイズが大きくなっている。ところが、大阪大学・鷲尾隆教授、NIMS・今村岳独立研究者との共同研究による新たな解析方法の開発により、このポンプを使わずにすむ技術が確立されつつあるというのだ。
――ポンプなしだとどうなるのでしょう。
ニオイが出ているところに、MSS(素子)を近づけるだけで、それが何のニオイか識別できるようになります。そうなると、ポンプなどの小型化が難しい周辺機器がいらなくなり、必要なのはMSSとICチップだけになります。たとえばスマートフォンにMSSを入れることも可能になり、それだけでニオイを識別できるようになります。
MSSがスマートフォンに組み込まれれば、嗅覚センサーは身近のものとなるだろう。そうなれば、今年からはじまる企業の実証実験の動きなどと合わせ、MSSアライアンスが目指す、「MSSの業界標準化」へ一歩近づくことになる。日本発の嗅覚センサーが世界の標準となる日は近いかもしれない。