「顔認証」。鍵もパスワードもいらない「顔」による本人認証が広がっている。最近のニュースで伝えられたのは、大阪では2025年の万博までに地下鉄の改札を顔認証で通過可能にする実験が始まったこと。東京では2020年のオリンピックの関係者の入退場に顔認証ゲートが利用できることなど。日本国内でも顔認証を使ったサービスの話題は何かと多い。
しかし顔認証といえば、よくも悪くも広く普及しているのは中国。今年9月には広東省広州市の地下鉄で顔認証の改札が登場。また、店舗での支払いは現金、クレジットカードでもなく、日本ではやっと普及しはじめたQRコードすら不要。アリババグループのアリペイと連動した顔決済システムの端末「スマイル・トゥ・ペイ(Smile to Pay)」などが広く普及しており、支払いはカメラに顔を向ければよい。その際にディスプレイに表示される「自分の素の顔が気に入らないから」との理由で利用をためらうユーザーのために、“美顔に盛った”顔写真を表示するサービスさえも登場している。コンサート会場などの監視カメラで逃走犯を逮捕したという話題から、果てはパンダの顔認証まで中国は顔認証技術大国だ。
そんな中国には顔認証の技術で急激に成長したスタートアップがいくつもある。これまでに16億ドル以上を調達した商湯科技(SenseTime 以下、センスタイム)。顔認識技術「Face++」を持つ人工知能(AI)開発企業のメグビー・テクノロジー(Megvii Technology 以下、メグビー)。中国では銀行ATMの顔認証にも使われている依図網絡科技(YITUテクノロジー 以下、YITU)は、2018年の米国国立標準技術研究所(NIST)の顔認証ベンチマークテスト(FRVT2017)でトップの成績をおさめている。
ドローンやEVなど、先端技術の分野で中国に遅れをとることが目立つようになってきた昨今。顔認証でも後塵を拝するのかと思いきや。顔認識などのバイオメトリックス(生体認証)の分野ではまだ日本の企業に一日の長がある。
日本で顔を自動的に認識する技術が多くの人の目に触れるようになったのは、カメラのファインダーの中だ。顔認識オートフォーカスは2005年登場している。その後、顔を検出するだけではなく、笑顔を検出してシャッターを切る機能なども開発されている。また、顔を認識するだけでなく本人か否かを見分ける顔認証の技術は、日本では2010年頃にパチンコ業界から普及が始まった。日本のパチンコや海外のカジノでは防犯目的などでの顔認証が広く利用されている。
このように日本でもさまざまな分野で顔認識は利用されており、そこに携わるメーカーは多い。その中でも、上記の米国国立標準技術研究所(NIST)の顔認証ベンチマークテストで2009年から2017年の間に連続4回。さらに最新の2019年NIST顔認証ベンチマークテスト(FRVT2018)でも米国、中国の企業を抑えて通算5回目のトップの成績をおさめたのは日本電気株式会社(以下、NEC)だ。
日本がリードを保つ顔認識の分野について、2009年の顔認証ベンチマークテスト世界一獲得の立て役者であり、以降ずっとNECの顔認証技術を支えてきたNEC今岡仁NECフェローに話を聞いた。
まずNISTの顔認証ベンチマークテストについてその状況を伺うと、「エラーレート(認証エラー率)を比較すると1位のNECが2位の企業のエラーレートの約3分の1に抑えられているという結果が出ました」(今岡氏)。まったく精度が出ていないベンダーも多数存在するという。「顔認証一発でのし上がってやろうというスタートアップも多く参加者は増えているのです」と語る。一般に顔認証は登録人数が増えると認証精度が落ちるとされているが、「登録人数に対する認証精度の依存」についても、NECの顔認証技術は1200万人登録時にエラー率0.5%という圧倒的なエラーレートの低さをたたき出して、1位の評価を得ている。
顔認証は「精度」に加えて「認証速度」も重要であり、そこもNECの強みだと言う。認証速度と精度はおおむねトレードオフの関係であり、速度を取ると精度が下がり、精度を優先すると速度が遅くなる。しかしNECの顔認証技術は高い精度を持ちながら、1秒間に2.3億人を検索できるとのことだ。「しかもスパコンじゃなくって普通使っているようなサーバーでできる」(今岡氏)
さらにNECは、加齢などによる顔の変化に対するNISTのベンチマークテスト「経年変化に対する認証精度」でも、2位ベンダーの4分の1程度のエラーレートで1位を獲得。パスポート写真など10年近く前の顔写真での認証にも対応可能なことを証明した。
NECの強みは顔認証だけにとどまらず、虹彩や指紋なども取り扱う総合バイオメトリクスメーカーであることだ。顔認証といえば中国の企業が強い印象があるが、今岡氏いわく、世界で総合バイオメトリクスメーカーと言えるのは同社を含めて3社。ジェムアルト(Gemalto フランス)、アイデミア(IDEMIA フランス)それにNECしかないと言う。
「マルチモーダル(モーダル=認証技術)を持っている総合メーカーというのが我々の強みだと思います」(今岡氏)
生体認証技術を標榜している総合メーカーは他にも多いが、“掌紋”や“顔“などひとつの認証技術しか持っていないことがほとんどだと言う。NECは顔認証の他、指静脈、指紋・掌紋、声、虹彩、耳音響の6つの認証技術を保有し、それぞれを組み合わせて最適な提案ができる。生体認証は複数方式を組み合わせるとさらに確実性が上がる。また、総合メーカーの強みとして、通信ネットワークの構築からハードウェアの製造、施設に導入する工事までも行える。また顔認証に重要な暗号化技術にも強い。中国の企業や国内外のスタートアップをはじめ、競合はあまた出てきたように見えるが、精度はもちろん、必要とされる総合力を持つ競合は少ないと今岡氏は自信を見せる。
今でこそ「顔認証技術世界一はNEC」という認知が広まったが、ここまでの道のりは決して順風満帆ではなかったという。1971年からNECは生体認証(当時は指紋)の研究をスタートさせている。そして「指紋の次は顔」という流れで1989年から顔認証の研究が始まり、今岡氏は2002年からそこに加わっていた。しかし当時は「指紋認証に比べて顔認証の精度はどうなの」「使い物になるのか」といった評価に晒されていたらしい。今岡氏は「その当時、“顔認証っていうのは三文判だよね”って言われ方もされていましたね」と笑いながら振り返る。当時の技術では街の文房具屋でも買える三文判程度の信頼性だと言う意味だ。今岡氏によると、2000年時点顔認証に取り組むベンダーは多かったが、だんだん“顔認証は精度が出ないのではないか”と業界の機運が盛り下がってしまったと言う。
そして2000年代後半に入り、他のベンダーが次々と顔認証から撤退する中、あきらめずに続けていたNECに2008年頃大きなブレイクスルーが訪れる。当時急速に発達した機械学習により顔認証技術の精度を飛躍的に高めることができたのだ。2009年にはNISTの顔認証ベンチマークテストに参加。初参加で2009年世界一の精度だと評価されることになる。
しかし、「世界一」の称号を得てもなお、社内で注目すらされなかったと今岡氏は笑う。その後、「世界一」がメディアで報じられ海外に広まり、国外企業から数百件の引き合いが来てはじめてNECも事の重大さに気づいた。いかにNISTの客観的な評価が海外企業に重視されているかの証左だ。
「やはりトップを取り続けてきたというのは大きかったんでしょうかね。2007年ぐらいの顔認証技術が盛り下がった時期には、世界的にどんどん研究者が離れてしまい、別の認証技術がいいんじゃないかと言う議論も出ていました。でも、私たちがトップを取っているうちに、研究者たちが顔認証の方にもう一度近寄ってきた感じです。2010年代からはぞくぞくと顔認証に参入してきちゃったわけですね(笑)。まあ、業界全体が盛り上がることはいいんじゃないかなと思うんです。今、決済に使える技術になってきました。中国では電車の乗り降りとかに使っている。生体認証、とくに顔認証は爆発的な普及期になってきていると言えるでしょう」(今岡氏)
さらに、今岡氏に顔認証が今後どうなりそうなのかを訪ねてみた。
―先ほど顔認証は爆発期を迎えたと言われたが、2020年はオリンピックもあり、まさに一般市民の生活に拡大するのではないか?
「そう。オリンピックというものをきっかけに、日本で生体認証ってものが使われる転換の年になるんじゃないですか。一つの ID で世界が開けていくと世界的な機運がある。それに日本人が気づくのはオリンピックじゃないかと。まだ一般の人って顔認証ってわかってないって言うか馴染みがない。このオリンピックで広まると言うか、気づくと言うかそんな感じですかね。そしていつか“あの年が転換期だったよね”みたいに振り返るのではないですか?」
― 今後は顔認証で世界はどうなっていくのか?
「今航空連合のスターアライアンスと顔認証を活用した本人確認プラットフォームの開発の話が進んでいます。それは全世界の空港で顔認証が統一的に扱われるわけですよ。顔認証から広がるデジタル ID の世界ですよね。
顔認証が全世界に広がり、どこでも顔認証みたいな未来は実現したいなと思っています」
― 日本でも決済に使われるようになるのか?
「それは来ますよ。確実にきますよ。ATM やスマホでの決済などで(※)。1つのIDで世界がつながっていく顔認証。社会のインフラになるんじゃないかなと感じています」
※NECはこの9月からセブン銀行と顔認証による本人確認可能な次世代ATM機の導入をスタートしている。
顔認証についてはプライバシーの議論もある。そこについて今岡氏は「基本的には議論していくことが非常に重要で、そうして社会のコンセンサスを取っていく。今議論していることをネガティブに捉えるのではなくてポジティブな意味でしっかり議論して使っていこうと。つまり“使うための議論”だと NEC では捉えています」と話した。拙速に、荒っぽく社会実装を進めるのではなく、社会とのコンセンサスをとりながら確実に進めていくことを大切にするのがNECの社風で、そこが信頼されるのではと言う。これは顔認証に対する日本の温度感を反映した姿勢だろう。
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NEC が現在大きな市場としているのが米国と日本だ。米国では競合も出てきているが、前述のように生体認証について幅広い技術を持つとか、生体認証を事業化するノウハウなどを持ち合わせているところは少ないという。日本国内ではNECの他に、空港の出入国ゲートに顔認証が採用されているパナソニックや大阪メトロの実証実験に参加している東芝やオムロンのグループ企業も自社の技術の普及を狙っている。
中国に関しては冒頭に書いたように中国のスタートアップが成長しており、日米の企業が割って入るのは難しい。また、ウイグル族への人権侵害を理由に、センスタイム、メグビー、YITUの3社は米国の制裁対象企業リストに加えられている。これまではこうした中国企業も日米の企業と資本や事業面で連動してきたが、今後より一層の連携は困難となるだろう。こうなると顔認証に関しては中国と日欧米ではルールも異なれば、参加企業も異なるという状況になり、発展の方向性も異なったものになることが予想される。
「世界的なAIの戦いの中で、日本にもこうやってトップを取れるベンダーがいるんだと言いたい」とNECの今岡氏がインタビューの中で話していたが、この分野ではまだ日本にも可能性がある。今後存在感を維持し、高めるには2極化するマーケットの中を見極め、賢く対応する力が問われる。(インタビュー・文 藤木俊明 構成:DG Lab Haus編集部)